僕はお父様に寄宿舎の事を話した。
定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと少しもびっくりなさらない。
こう云って平気でおられる。
そこで僕はこれも嘗めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。
ヰタ・セクスアリス -森鴎外
Predator: The Secret Scandal of J-Pop(邦題:J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)は故ジャニー喜多川のチャイルドアビューズとそれを取り巻く社会問題を追った英BBC製作のドキュメンタリー。
「映像作品」である。ジャニー喜多川の醜聞は本邦でも生前から好奇の視線とともに長らく断続的な形でメディアに取り上げられてきたが、これまでの国内の報道や論考とは一線を画す独自の切り口が本作にはある。なによりそれが「映画的」な単一のメディアとして公開されたというのは大きい。映画とは情報過多である。書物のように読者が自ら読み進める必要はなく、それが終わるまでただぼーっとして前にいるだけでも鑑賞を完了する事は出来るが、明示的なセリフや文字だけでなく人々の細かな仕草や表情のような示唆的なメッセージを含めると膨大な量の情報を視聴者は処理する事になる。
Predator: The Secret Scandal of J-Popの表面的な主題はジャニー喜多川が行ってきた児童虐待の告発とそれが強大な権力によって握りつぶされてきた過去を通じて芸能界やメディアの権威主義を明らかにする事だが、終始「奇妙」な異化効果のフィルターと編集のマジックがそこには存在する。
ビルボードモンタージュ |
本作はジャーナリストのMobeen Azharが実質的な進行役(解説/インタビュー)を務めるが、彼は単なる黒子ではなく、彼の「キャラクター」には常に映像的/文脈的な意味がある。この本編冒頭の印象的なモンタージュは非常に分かりやすい一例だろう。ジャニーズ事務所(所属アイドル)の社会的影響力を示すべく彼らが起用されたストリートの広告看板を映したショットだが、そうした第一義的な意図のメッセージだけでない事は明らかだ。
このカット編集が示す裏のメッセージは日本の「男性性」に対する異化効果である。少年性(あるいは少年愛)というジャニーズ的審美学とは伝統的な男性の「成熟」を拒否するところに本質がある。髭のない(医療脱毛し毛穴をファンデーションで埋めた)顔面を中年になっても維持するアンチエイジングの美意識とAzharのファッションを対比的に映す事で東アジアの今日的な価値観の特殊性を示している。
40歳の相葉雅紀とAzharがほぼ同年代で木村拓哉に至っては50歳、彼らは立派な中年なのである。東アジアの男性的成熟のモデルケースがジャニーズ的な少年性審美学の延長線にある事、「美貌」とはまた異なる少年的な愛嬌の良さが重視される社会であるという事、またそうした社会的な規範を長い年月をかけて形成した事こそがジャニーズ事務所ひいてはジャニー喜多川の最大の「功績」なのである。ジャニー喜多川が性的に愛し、また搾取したのは主に十代の少年たちであったが、そうしたジャニー喜多川が愛する少年像に実は日本の多くの大人(それもしばしば異性愛者男性)こそが囚われ固執している事を表している。
Mobeen Azhar 彼は常に対比表現の為の被写体として写される |
また番組の中では(意図的に)言及されないがAzharはゲイである。彼が顎髭を生やした南アジアにルーツを持つイケてるおしゃれな英国人のゲイである事は見る人が見れば全く明らかな事だがある種の「文脈」を持たない人にはそれがまったく分からないようになっている。同じ対象物を見ていても読み取る情報は人それぞれに異なり、全く違う光景に映る。こうした彼のバックグラウンド自体が本作の潜在的な主題であり、また批評的な仕掛けである事を踏まえて以降は見ていこう。
Azharが(オープン)ゲイである事も、またそれを番組中では特に明かさない事も作品上の「メッセージ」である。ジャニー喜多川がゲイの小児レイプ魔である事と彼は潜在的に対の関係となっているのだ。我々はしばしば人間とは社会性の生き物であり同じ属性の人間の肩を持つ傾向があると考える。つまり世のゲイはジャニー喜多川を同じゲイとしてシンパシーを感じており、彼の犯罪にも擁護的だろうというヘテロセクシズムの偏見を抱えているわけだが、むしろこの作品は一貫して真逆の奇妙な構造を捉えている。意識的なメッセージとしてある種の予測を裏切るような示唆を繰り返すのだ。
ジュンヤとのインタビュー |
13歳でジャニーズに入所したOB ジュンヤとのインタビューは本作で最も印象的なシーンと言える。同期の少年達がジャニー喜多川から性的虐待を受ける様を何度も見聞きし、自身もまたそのサバイバーであるにも関わらず、彼の口ぶりはすこぶる軽妙であり、またジャニー喜多川に対しては終始「護教的」な態度を取り続ける。
入所した小~中学生の少年達にとって初めての性体験がジャニー喜多川だったなんて話は「ジャニーズジュニアあるある」だったと彼はへらへらと笑みを浮かべながら冗談めかして話すが、一方でAzharは深刻な面持ちでそれを黙って聞いている。なんとも意地の悪い残酷なモンタージュだ。
事務所の社長とその所属タレントというひどく不均衡な力関係を背景に優越的な地位を利用して性的関係を迫る卑劣な権力者の老人と何の覚悟や拒否の決断も出来ぬままに慰み者にされる10代前半の(それも多くは異性愛者の)少年というグロテスクな構図をまるで青春の1ページ、大人になるまでの間に誰もが経験する普遍的な出来事であるかのように語る被害者。誰の目から見ても明らかに異常なその言動と態度に当然視聴者は不安、恐怖、怒り、羞恥といった負の感情を引き起こす。
こうした急激なストレス反応から逃れる為に我々はしばしばそれが「特殊」な環境で、ゆえに自分とは全く無関係なものだと逃避行動的に認識しようとする。これはあくまでもゲイ社会特有の「異常性」で、男性同性愛の世界においては普遍的なウィタ・セクスアリスの芽生えなのだと無理に「理解」しようと試みる心の機微だ。88年の北小路の暴露本に端を発するジャニー喜多川の醜聞、そこから10年後の週刊文春による一連の告発報道すらも得てしてそうしたヘテロセクシズムの観点が筆致にあった。スキャンダラスな惹句を意識的に用いて下卑たカストリズムの関心を買おうとする低俗な商業主義が「男性の性的虐待被害」を周縁化してきたのだ。
Predator: The Secret Scandal of J-Popが一線を画すのはMobeen Azharのリベラルな思想と彼の静かながら確かな感情表現が視聴者に寄り添い親和効果を生み出す点にある。Azharはジャニー喜多川の濫用の数々を聞く度に驚き憤慨し、被害者達を憐れみ同情する。この一貫した単純な反応の繰り返しによって得られる知見とはつまり、我々の一般的な反応と同様に「ゲイから見てもジャニーズは異常」だというシンプルな事実である。
本作は同性愛者から見た異性愛者の異常な性的規範のドキュメンタリーというサブテキストを含んでいる。まさにこの視座の反転こそが本作の独自性である。ゲイというマイノリティの異常な社会性ではなくこれらはむしろマジョリティであるノンケの異常な社会性であるのだ。
今も彼を愛していると語るサバイバーの言葉に露骨にFacepalmするAzhar |
関ジャニ∞によるスパイダーマン ホームカミングの宣伝広告 当時全員30代だったメンバーが15歳のスパイディーに扮した |
素晴らしいレイアウトだ |
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