2017年8月1日火曜日

さよなら違法なオタクたち

coding styleより
zavtoneの北里方志によるグラフィカルなシーン本
Demo Party(延いてはLan Party)で何をやってるかと言えば、
みんなでポルノを交換していたなどシーンの俗な面もレポートされているのが特徴。

Amazon Primeビデオでデジタル・スーパースター列伝 闇の世界の超人たちを観る。これはクーロン黒沢の四半世紀続くライフワークの一つで、ネット(とそれ以前のPの字カルチャー)を濫用しつづけ、時代に取り残されて朽ち果てていく落伍者を描いたドキュメンタリーのたぶん最近作で、もともと90年代にネットの達人 さわやかインターネットという本が出ていて、その直接的な続編というか続報みたいな内容の映像作品。




クーロン黒沢の表現のスタイルというか、実際に知り合った複数人の個々のエピソードや噂レベルで聞いた話をまとめた上で、一つの人格、キャラクタとして作品に登場させるという手法が今作でも採られている。僕らはそれを藁人形化とか怨念の合成魔獣とか呼んでいて、故に彼の著作に登場する単一の人物というのは概ねそのまま現実に存在するものではない。これは裏を返すと嘘の塊に真実が取り出せない状態でねじ込まれているようなもので、映像や演出のクオリティこそ段違いだが森達也作品のように、観る者の疑念を掻き立てる事で生じる独特な緊張感と不快感がそのままフックとなっている。

デジタル・スーパースター列伝 闇の世界の超人たちに登場する二人の狂人の内、ミスターPBXという藁人形を通して描かれるのがオーバーグラウンドのメディアでは最早語られる事も憚られるPの字文化、いわゆるフリーキング(Phreaking)、青箱犯罪だ。定額インターネット以前の時代、インターネット老人会より遡るダイヤルアップミイラ達の時代は電話回線(PSTN)を用いて通信を行っていたが、その料金は従量課金制だった。AT&T(アメリカ最大の電話会社)の市内間通話は定額だったが、例えばニューヨークからシカゴへの通信は時間単位で料金を取られる仕組みだった。日本の電電公社に至っては市内だろうが、隣家だろうがきっちり時間単位で利用者からお金をいただいていた。

Pの字とは平たく言えばPSTNのオペレータモードなどを濫用してタダで通信する手法の事だ。フリーキングに用いる装置は慣例的にRed BoxとかOrange Boxとか色+箱で名付けられていて、最も有名な70年代のタダ電装置Blue Boxにあやかって、その周辺カルチャーも含む形で単に青箱とも呼ばれていた。

Amiga(A500)用のフリーキングソフトウェア
渋谷氏という日本のディスク交換の有名人が撒いたとされる880KBで見た記憶がある。

青箱犯罪に関する記述は最近の日本でもスティーヴ・ジョブズの伝記なんかではまだちらりと窺う事ができる。Apple(Computer)以前に大学をドロップアウトしたジョブズはウォズニアックの作ったその装置を実際に使ったり、他者に売却して小銭を稼いでいたが本職のアウトローが嗅ぎつけてきたのでビビって逃げたという70年代のリジスト譚だ。

Steve Jobs tells the Blue Box Story (1994)

これらジョブズの伝記だけを読むと大抵数行、せいぜい数ページほどの記述、余談程度で終わっているため、Pカルチャーは英国のPカルチャーであるパンクと同時期に誕生し、ほどなく消えたようにすら錯覚してしまうが、その後80年代のホビーPCカルチャーと合流することで90年代の後半まで脈々とそれは続く事になった。欧州の最先端ホビーPCカルチャー、北欧の誇りであるCrack/Warezスケイネ(Sceneのスカンジナビア読み)はPhreakingなくして世界を席巻する事はなかっただろう。

Crack/Warez、商用ゲームソフトのコピープロテクト解除及び不特定多数の人間への共有はまず郵便事業の濫用によって行われていた。これは欧州に限らず、アメリカや日本でも以前から行われていた手法なのだが、ディスケットを各自コピーし切手を再利用しながらグループ内を郵送でリレーしていた。切手の再利用とは消印を消しゴムで削ったり、投函する前に"糊"で表面をコートしておいて、到着後にコートごと消印を除去するなどの手法が用いられたと言われている。これに関してはいわゆるテープ交換(ダビング、ホームレコーディング)コミュニティやZine文化(日本でいう所のミニコミ、同人)の方が歴史は古く、また長かった。

Winnebago Man
80年代にテープ交換グループで最も広く出回っていた定番ビデオ
キャンピングカーの宣伝映像にも関わらずスポークスマンの男は、
延々とFuckだのSon of a Bitchだの汚い言葉を放ち続ける奇妙な映像。

PSTNは今日のブロードバンド回線のように映像や音楽を流すにはまだあまりにか細く、不安定であったが、ビデオゲームなどのコンピュータソフトウェアをばら撒くに耐えうる信頼性と強度を持っていた。スウェーデンやフィンランド、ノルウェーに住む反社会的な若いマニア達は公共事業を濫用するにしても、ポストサービスへのアビュージングは既にクールではなかった。タダ電装置を使い国際通話でアメリカのホストに発売前のクラックしたゲームソフトをカッコいい起動時イントロを挿入して一番乗りでアップロードする事が何よりも20%クーラーだったからだ。

Acker LightによるSpeedball Cracktro
声ネタ入りの凝ったトラックなど衝撃的なイントロ、
この後にマリンバがフィーチャーされた本来のタイトルが表示され二重の驚き。

大抵の青箱犯罪者はこのアメリカに上がったゲームソフトや世代をへて地元(物理的な意味で)にやってきた同一のコピーをありがとうございますしながら自分のコンピュータにダウンロードする全くクールではないダサい豚だったわけだが、豚は単一のミスターPBXではなく、世界中に、この日本にも掃いて捨てるほどにはいたのだ。クーロン黒沢のドキュメンタリーはそんな忘れられた、放棄された歴史を人差し指でえんがちょそうに突いて触れる。

思えば、オタクという侮蔑語は反社会的なある種の思想の持ち主という意が込められていた。オタクは欲しい物を手に入れる為に手段を選ばない。それはブラインドバッグを出荷時のロットでごと買っていくような無粋な金の使い方だったり、あるいはペイウォールを一跨ぎにしてほしい物はタダですべて手に入れようとしたり、遂には発売日前のクラックされたリーク品にお構いなしで手を出す。仮に金銭や時間が己の身の丈におさまらず、ある種の障害となったとしても、それを無視できるルートがあれば既存の道徳や法を超越して利己的に振る舞うという原理主義的な思想家だったのだ。

大好きな百合漫画の危機に超法規的手段で颯爽と駆けつけるオタク

侮蔑語であり、悪意を伴って放たれていたオタクという言霊は、裏を返せば第三者視点でもありありとその思想が映し出されていた。後の"オタクサイド"によるキレイなオタクキャンペーンというか、オタクは実はやさしいとか、大規模イベントでも綺麗に整列して、ゴミをポイ捨てしませんとか、正規なルートでお金を払います、ついでに敬意も払います、マナーを守って正しくオタクみたいな話は、清く正しく強姦魔とか、思いやりを持って差別主義者になりましょうとか言い出すくらいおかしな事だ。よくあるオタクは昔は差別されていたという歴史観は単にマンガやアニメの地位向上でアニメやマンガが好きだという事を公言しやすくなったに過ぎない。もし不特定多数の相手とセックスするのがはばかられた時代がゴールドロジャーの死の際の一言によって大コーマン時代になり、ヤリチンやヤリマンの地位が向上したとしても、強姦魔はゴミクズの犯罪者のままだろう。

しかし時代は逆転し集団レイプする人は、まだ元気があるからいいとされたし、オタクという語は浄化され、小悪党の反社会的思想はそこから淘汰されていった。なので保護されたディスクからリッピングした高解像度のアニメや漢人グループによって解放されたビデオゲーム、圧縮された画像ファイルの集合を下载しつづけ、HDDに無尽蔵にそれを蓄えた倒錯する狂人を我々クリーンなオタク達はオタクの風上に置けないゴミ、割れ厨の犯罪者と形容する。その一方でYoutubeにしろSpotifyにしろプラットフォーム自体が当初は、アウトロー側に寄り添った思想を有していた。にも関わらず、ご存じの通りそれらはセルアウトして当初のリーダーはビッグマネーを掴んでいるし、anakataとtiamoは多額の賠償請求を気にも留めない様子で広域網通信のカリスマ然とし、金子勇はその死によって真に殉教者となった。

Anakita

ある種のオタクを自称する人達はコンサバティズムの道を選んだ。僕らは多大な経済効果を生み出し、現行法を守る正しい市民であると広報活動を始め、それは一定の効果を示したように思う。信仰の跳躍を経てセルアウトしたり、塀の向こうのカリスマか、はたまた六畳間に埋没する哀れな落伍者となる怪しげな線上の進歩派達をサブジャンル化という体で切り離し、否定する事で相対的にオタク差別を終焉へと向かわせた。それはかつて侮蔑の意味で放たれていたはずのクイアミュージック(オカマの音楽の意)をアイデンティティとして敢えて自称する人々が、大ロシア帝国では同性愛は違法なので、ロシアのホモ(犯罪者)は失せろと言い出すロビー活動程度の支離滅裂さを感じるのだが、どうも権威主義者達にとっては道理が通るようなのだ。

伊織
笑顔
永遠
無料
合法
完全

かつてイリーガル層と呼ばれた現金化できない厄介なパイを21世紀のビデオゲームはこぞって取り合っているという事を以前記事に書いた。ビデオゲームは恐ろしいほど狡猾で進歩的だ。イオンモールが入場料を取らない事がどれだけ狡猾で進歩的であるかをもはや認知できない現代人ですら、アイドルマスターミリオンライブシアターデイズがいかに畏怖すべき存在であるかは自明の理であるように、無料はホラーなのだ。にもかかわらずロハに殉じた狂気の人々を文字通り"違った"人としか今日の合法的フリーミアムを享受するオタクが認識できないのであれば、それはとても悲しい事のように思う。まるでそれは遅すぎて、長すぎた思春期が過ぎ去った時、ふと誰かの名前を思い出せなくなった事に気づいたようであるから。

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