2023年4月9日日曜日

「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」の異化効果について

僕はお父様に寄宿舎の事を話した。
定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと少しもびっくりなさらない。

「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」

こう云って平気でおられる。
そこで僕はこれも嘗めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。

ヰタ・セクスアリス -森鴎外

Predator: The Secret Scandal of J-Pop(邦題:J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)は故ジャニー喜多川のチャイルドアビューズとそれを取り巻く社会問題を追った英BBC製作のドキュメンタリー。

「映像作品」である。ジャニー喜多川の醜聞は本邦でも生前から好奇の視線とともに長らく断続的な形でメディアに取り上げられてきたが、これまでの国内の報道や論考とは一線を画す独自の切り口が本作にはある。なによりそれが「映画的」な単一のメディアとして公開されたというのは大きい。映画とは情報過多である。書物のように読者が自ら読み進める必要はなく、それが終わるまでただぼーっとして前にいるだけでも鑑賞を完了する事は出来るが、明示的なセリフや文字だけでなく人々の細かな仕草や表情のような示唆的なメッセージを含めると膨大な量の情報を視聴者は処理する事になる。

Predator: The Secret Scandal of J-Popの表面的な主題はジャニー喜多川が行ってきた児童虐待の告発とそれが強大な権力によって握りつぶされてきた過去を通じて芸能界やメディアの権威主義を明らかにする事だが、終始「奇妙」な異化効果のフィルターと編集のマジックがそこには存在する。

ビルボードモンタージュ

本作はジャーナリストのMobeen Azharが実質的な進行役(解説/インタビュー)を務めるが、彼は単なる黒子ではなく、彼の「キャラクター」には常に映像的/文脈的な意味がある。この本編冒頭の印象的なモンタージュは非常に分かりやすい一例だろう。ジャニーズ事務所(所属アイドル)の社会的影響力を示すべく彼らが起用されたストリートの広告看板を映したショットだが、そうした第一義的な意図のメッセージだけでない事は明らかだ。

このカット編集が示す裏のメッセージは日本の「男性性」に対する異化効果である。少年性(あるいは少年愛)というジャニーズ的審美学とは伝統的な男性の「成熟」を拒否するところに本質がある。髭のない(医療脱毛し毛穴をファンデーションで埋めた)顔面を中年になっても維持するアンチエイジングの美意識とAzharのファッションを対比的に映す事で東アジアの今日的な価値観の特殊性を示している。

40歳の相葉雅紀とAzharがほぼ同年代で木村拓哉に至っては50歳、彼らは立派な中年なのである。東アジアの男性的成熟のモデルケースがジャニーズ的な少年性審美学の延長線にある事、「美貌」とはまた異なる少年的な愛嬌の良さが重視される社会であるという事、またそうした社会的な規範を長い年月をかけて形成した事こそがジャニーズ事務所ひいてはジャニー喜多川の最大の「功績」なのである。ジャニー喜多川が性的に愛し、また搾取したのは主に十代の少年たちであったが、そうしたジャニー喜多川が愛する少年像に実は日本の多くの大人(それもしばしば異性愛者男性)こそが囚われ固執している事を表している。

Mobeen Azhar
彼は常に対比表現の為の被写体として写される

また番組の中では(意図的に)言及されないがAzharはゲイである。彼が顎髭を生やした南アジアにルーツを持つイケてるおしゃれな英国人のゲイである事は見る人が見れば全く明らかな事だがある種の「文脈」を持たない人にはそれがまったく分からないようになっている。同じ対象物を見ていても読み取る情報は人それぞれに異なり、全く違う光景に映る。こうした彼のバックグラウンド自体が本作の潜在的な主題であり、また批評的な仕掛けである事を踏まえて以降は見ていこう。

Azharが(オープン)ゲイである事も、またそれを番組中では特に明かさない事も作品上の「メッセージ」である。ジャニー喜多川がゲイの小児レイプ魔である事と彼は潜在的に対の関係となっているのだ。我々はしばしば人間とは社会性の生き物であり同じ属性の人間の肩を持つ傾向があると考える。つまり世のゲイはジャニー喜多川を同じゲイとしてシンパシーを感じており、彼の犯罪にも擁護的だろうというヘテロセクシズムの偏見を抱えているわけだが、むしろこの作品は一貫して真逆の奇妙な構造を捉えている。意識的なメッセージとしてある種の予測を裏切るような示唆を繰り返すのだ。

ジュンヤとのインタビュー

13歳でジャニーズに入所したOB ジュンヤとのインタビューは本作で最も印象的なシーンと言える。同期の少年達がジャニー喜多川から性的虐待を受ける様を何度も見聞きし、自身もまたそのサバイバーであるにも関わらず、彼の口ぶりはすこぶる軽妙であり、またジャニー喜多川に対しては終始「護教的」な態度を取り続ける。

入所した小~中学生の少年達にとって初めての性体験がジャニー喜多川だったなんて話は「ジャニーズジュニアあるある」だったと彼はへらへらと笑みを浮かべながら冗談めかして話すが、一方でAzharは深刻な面持ちでそれを黙って聞いている。なんとも意地の悪い残酷なモンタージュだ。

事務所の社長とその所属タレントというひどく不均衡な力関係を背景に優越的な地位を利用して性的関係を迫る卑劣な権力者の老人と何の覚悟や拒否の決断も出来ぬままに慰み者にされる10代前半の(それも多くは異性愛者の)少年というグロテスクな構図をまるで青春の1ページ、大人になるまでの間に誰もが経験する普遍的な出来事であるかのように語る被害者。誰の目から見ても明らかに異常なその言動と態度に当然視聴者は不安、恐怖、怒り、羞恥といった負の感情を引き起こす。

こうした急激なストレス反応から逃れる為に我々はしばしばそれが「特殊」な環境で、ゆえに自分とは全く無関係なものだと逃避行動的に認識しようとする。これはあくまでもゲイ社会特有の「異常性」で、男性同性愛の世界においては普遍的なウィタ・セクスアリスの芽生えなのだと無理に「理解」しようと試みる心の機微だ。88年の北小路の暴露本に端を発するジャニー喜多川の醜聞、そこから10年後の週刊文春による一連の告発報道すらも得てしてそうしたヘテロセクシズムの観点が筆致にあった。スキャンダラスな惹句を意識的に用いて下卑たカストリズムの関心を買おうとする低俗な商業主義が「男性の性的虐待被害」を周縁化してきたのだ。

Predator: The Secret Scandal of J-Popが一線を画すのはMobeen Azharのリベラルな思想と彼の静かながら確かな感情表現が視聴者に寄り添い親和効果を生み出す点にある。Azharはジャニー喜多川の濫用の数々を聞く度に驚き憤慨し、被害者達を憐れみ同情する。この一貫した単純な反応の繰り返しによって得られる知見とはつまり、我々の一般的な反応と同様に「ゲイから見てもジャニーズは異常」だというシンプルな事実である。

本作は同性愛者から見た異性愛者の異常な性的規範のドキュメンタリーというサブテキストを含んでいる。まさにこの視座の反転こそが本作の独自性である。ゲイというマイノリティの異常な社会性ではなくこれらはむしろマジョリティであるノンケの異常な社会性であるのだ。

今も彼を愛していると語るサバイバーの言葉に露骨にFacepalmするAzhar
ジャニーズOBのリュウは16歳の頃ジャニー喜多川に肉体関係を迫られ拒絶した過去を抱えながらも、彼を今も愛していると笑顔で語りAzharは嘆嗟のジェスチャーを示す。リュウのセクシャリティが直接的に明言されるわけではないが彼がサブミッシブな老け専のゲイで、優に半世紀分も歳の離れた権力者男性に性的に支配される事やそうした性愛と暴力の駆け引きに至上の歓びを感じる倒錯的な快楽主義者でない事は明白である。

それにも関わらず彼は卑劣な児童虐待者であるジャニー喜多川に現在も親近感を感じているとうそぶく。作中でAzharはこれが典型的なグルーミング(加害者が性暴力を行う前段階で被害者と中長期的な信頼関係を構築し手懐ける事)の構図であると指摘する。その見立ては概ね正しいがそれだけでは説明できない大局的な文化背景が東アジアにはある、年長者を敬い愛するという道徳的な規範により生じる個別的な支配構造が法や秩序といったより巨視的な枠組みをしばしば超越するという点だ。

歴史的に「孝」の概念が国家における君主と臣民の支配関係にも適用されてきたように、ジャニー喜多川の「父性」は資本主義と結びつく事で現代的な支配構造を形成した。老いた親が子に「若さ」と「性」を求め続ける以上、子どもたちはいつまでも若く性的であり続けなければならない、直接的なセックスの関係はなくとも彼らはいつまでもまるで十代のように振る舞わなければならないのである。

関ジャニ∞によるスパイダーマン ホームカミングの宣伝広告
当時全員30代だったメンバーが15歳のスパイディーに扮した

東アジアの人々は彼らもおそらくは自覚していない「奇妙」な文化的プレッシャーによって実年齢より幼く振る舞っている。これはジャニーズに限った事ではなく社会全体の指向といって良いだろう。いわば若くあろうとする事は被支配的である事を望むのと同義であるが、同時に高齢化社会とは絶対的な若者の減少によって相対的な若者が生じる社会であるのだ。実際的な問題として30代や40代がガキの使い走りのような金で働かされ、後期高齢者を病院に運ぶタクシーの運転手は働き盛りの70代である。望むと望まざるにかかわらず労働者は若くあらざるを得ない構造になっている。


こうした線形的に提示される無数の示唆の後、無作為な(風に装った)市民街頭インタビューのシーンで登場する上記画像男性は、作中で唯一自身がゲイである事を明示的に表明する人物だ。また彼はゲイという「共通する属性」、その同族意識から利害関係もないジャニー喜多川のシンパであると公言し擁護的な態度を取る。彼が自身のセクシャリティを表立って明かす事の意図もまた異化効果を狙った意地の悪い英国式の皮肉だ。

彼は自分が「少数派」の人間であるがゆえに、多数派とは異なる共感の論理からジャニー喜多川の悪徳を看過しているのだと自己分析しているが、Azharという異邦人の視線を通じてこれまで写された日本の実態は全くそれと逆だ。むしろ異性愛者ほど権威に迎合する形で自分の意に反する行為を受けいれており、またそうした構造に対して一般の人々は諦念的である。目上の人間の求めを反故にする事はできない「孝」と「忠」の世界では同性の性行為もレイプも概念的に区別されず、親が望むなら子は黙って受け入れるべきだと規定される。ともすれば彼の考え方は日本においてはむしろ異性愛規範的であるとすら言えよう。これは同性愛に対する寛容ではなく、支配者の横暴に対する忍耐の美徳であるのだ。

素晴らしいレイアウトだ

番組の最後に一行がジャニーズ事務所本社への突撃取材を敢行すると、抑圧的な態度の白人担当者に門前払いされる。郷に入っては郷に従えとはよく言ったものだが、これはある種の支配構造に民族的なアイデンティティや肌の色は無関係である事を映像的に示している。世界は我々の予想を裏切り続ける。鴎外の言葉を借りれば「Urningたる素質」がなく不本意であろうと肉体関係を受け入れる事は「物理的」に可能であるし、またそうした被害を受けると被害者の脳は加害者に好意的な感情が生じるように出来ている。このような恐怖と懐柔の統治が加害者と被害者を結びつけ秩序を生む以上は、怪獣が死に支配が終わった時に生じるのは当然秩序の崩壊である。

実際的に資本主義社会において労働者は支配から逃れられない。我々は日常的に不平等な力関係から不本意な行為や行動を強いられており、こうした状況において人々の関心はしばしば誰に、どのように支配されるかという処世術的な「選択問題」に焦点化してしまうが、ご主人様選びの目を養うだけでは構造的な問題が解決する事はない。代替的な「親」を選ぶのではなく、代替的な「社会」を選択しない限りいつまでもそれは維持されるだろう。

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ugh