2021年9月16日木曜日

Counter Strikeはなぜ16ラウンド先取なのか…あるいはValorantはなぜ13ラウンド先取ルールになったのか。


自由の国アメリカに生まれたユダヤ人メイル・カハネの人間的本質は悪漢(Rogue)である。ホロコーストを生き延びたユダヤ人難民の受け入れを拒否し続けたイギリスの外務大臣アーネスト・ベヴィンに抗議すべく生卵をぶつけて逮捕された瞬間に彼の活動家としての人生は始まった。カハネは新左翼運動の真っ只中である68年にユダヤ防衛同盟(JDL)を結成するとすぐさま頭角を現す。当初のJDLはニューヨークのローカルな自警団/互助グループに過ぎなかったとされる。地域に住むユダヤ人に向けられた不当な差別や敵意、暴力(ヘイトクライム)に対抗すべく「実力行使」も辞さなかったJDLは短期間に地域社会での支持基盤を得ると、その後は反ソビエト(反共)の時流的ムーブメントに乗り勢力を急速に拡大していく。

メイル・カハネ
Never Again(二度と起こすな)はJDLのスローガンだ

しかし反共とユダヤ人民族主義に裏付けられたカハネの思想は先鋭化し、その行動もまた急速に過激化していく。71年に爆弾製造の廉で逮捕された後、カハネはイスラエルのユダヤ人入植地へ移住し、そこでもパレスチナ人へのテロ攻撃を計画した容疑で逮捕されるなどその後10年間で60回以上も逮捕されるが、80年代になって反イスラムの過激な民族/排外主義を掲げる超国家主義者として議会政治の舞台へと進出する…いわゆるカハニズム(カハネ主義)である。

90年11月5日、カハネはアメリカ マンハッタンでザイオニスト達に向けてスピーチを行った後、ユダヤ人に変装した男に拳銃で首を撃たれ絶命する。前後して88年に彼をリーダーとするカハ党は人種差別を理由に選挙への出馬を禁止され、また党首を失った事でカハ党とカハネハイ党(カハネは生きている)に分裂するが、90年代には両政党は憎悪扇動を理由に存在そのものを禁止された。今日ではカハネの肖像やカハのシンボルを掲げる事は、ナチやヒトラーと同様に国際的なタブーとされている。

93年2月26日、世界貿易センタービルの地下駐車場がわずか数百ドルを用立てて作られた車爆弾の炸裂によって木っ端微塵になった。このテロはウサマ・ビン・ラーディン率いるアルカーイダとオマル・アブドッラフマーン率いるイスラム集団(IG)の組織/思想的関与によって行われており、その計画立案は誇大妄想の叔父に単身アメリカへ送り込まれた爆弾のスペシャリスト ラムジー・ユセフと当時服役中だったエジプト移民のアメリカ人 エル・サイード・ノサイルとその仲間達を中心にして行われたとされる。

ラムジー・ユセフ
イギリスで高等教育を受けた後、カーイダで爆発物の訓練を受け戦士となった。

95年、メディア中毒の誇大妄想家ハリド・シェイク・モハメドによる壮大な世界同時テロ計画が失敗する。フィリピンを訪問する教皇ヨハネ・パウロ二世を暗殺し、立て続けに世界中の旅客機11台を爆破、最後に商用パイロットの経験を持つアブドゥル・ハキム・ムラドにハイジャックさせた旅客機を使ってCIA本部を自爆攻撃し、エアラインの安全神話を、延いては既存の西洋文明を恐怖のどん底に叩き落とす筈だったが、フィリピンの潜伏先アジトがムラドの不注意から出火。モハメドの計画は中止され、甥のラムジー・ユセフと共に国外逃亡するも翌年にはパキスタンでユセフが逮捕される。

アジトに残されたユセフの東芝製ラップトップからは爆弾の製造法やテロ計画に関する文書が発見されている。そこにはイスラエルを支持するアメリカと、またそのアメリカを支持する各国の直接/間接的な外交政策、それらの国の人々に当然政府の行動責任があるという事、ゆえにアメリカ帝国主義の内外で自分達が無差別な攻撃を行うというマニフェストが記されていた。民間旅客機同時爆破作戦 コードネーム ボジンカはこうして未遂に終わった。

99年、ベトナム戦争の戦禍を逃れて難民としてカナダへ渡ったGoosemanことミン・リーはこの頃既にインターネットでは優秀なアマチュアのガンデザイナーと目されていた。銃器設計のスペシャリストといっても、彼が作るのはあくまでビデオゲームの武器であって実銃ではない。モデルガンのマニアだったリーは当時はまだ珍しかったFPSの実銃ゲーム移植に尽力し、既にAction Quake2という大人気MODの銃モデルやその動作、射撃感をほぼ一人でデザインし実装していた。

ミン・リー
戦災難民として母国を離れカナダで高等教育を受けテロを主題としたゲームを製作する

大学4年生になったリーは人気ゲームHalf-LifeのModとしてテロリズムをテーマにした新しい作品を開発し始める。それはマニアらしい銃や装備への偏執的な拘りによりモデルはほぼ一から自身で制作され、テロリストと対テロ特殊部隊の戦闘、実際のテログループや歴史上の事件などを参考に現実的なシナリオ(立て籠もり犯への人質救出を目的とした強襲作戦)を元にしつつも、あくまでゲームらしいスピーディなチームベースの対戦ゲームとして仕上げていく。最終的にリーは本作にCounter-Strikeという造語を名づけインターネットに公開する。

2000年12月10日、Cyberathlete Professional League(CPL)による最初のCounter StrikeトーナメントをClanZが優勝する。Counter-StrikeのMOD公開から1年半が経ち、その爆発的な人気に応えて遂に賞金トーナメントが開催されるまでになっていた。ClanZはQuake Worldの時代から活動する老舗の競技ゲームグループだったが、それは当時欧州最強と謳われたスウェーデンの全身凶器Ninjas in Pyjamas(NIP)のHeatonが年齢制限(16歳以下)に引っ掛かりフルメンバーでの出場が出来なかったおかげで棚ぼた的に得られた優勝でもあった。

2001年5月13日、CPLオランダを元NIPのHeaton、Hyb、Medionを擁する「ほぼNIP」のSpirit of Amigaが優勝。

2001年8月5日、CPLロンドンを再結成したNIPが優勝、オランダでの優勝メンバーに元NIPのPottiが再合流しXeqtRを擁立した2001年の最新最強NIPであった。

2001年9月2日、CPLベルリンをNIPが優勝。ロンドンと同一メンバーによる優勝で、もはや欧州に敵はいないとすら考えられていた。最終決戦はアメリカで12月に開催されるCPL Winter Championshipを残すのみとなった。

Heatonことエミル・クリステンセン
弱冠15歳でシーンに登場し、当時無敵の強さを誇った

2001年9月11日、民間航空機4機の同時ハイジャック及び、それらを用いた建造物への同時自爆攻撃がアメリカで行われる。標的となったのは世界貿易センタービル、国防省、ホワイトハウス。ハイジャックされた4機の航空機は乗員/乗客とテロリスト含め全員死亡。自爆攻撃は途中で墜落したユナイテッド93便を除く3機が成功し、世界貿易センタービルが全壊、国防省本庁舎が被害を受けた。


ウサマ・ビン・ラーディン率いるカーイダは90年代後半にボジンカ計画の失敗により失意に沈んでいた誇大妄想のメディア中毒者ハリド・シェイク・モハメドをよりにもよってカーイダのメディア/広報担当に採用する。モハメドはまだボジンカを諦めておらず、ボジンカ計画の発展となるハイジャック自爆テロ計画を再三再四ラーディンに進言し、最終的にラーディンは「ジハード宣言」を行ったと同時期に後の聖火曜作戦を承認した。モハメドの悲願は当初の想定規模を下回ってこそいたが21世紀になり遂に達成されたのだった。

KSMことハリド・シェイク・モハメド
アメリカで高等教育を受けた後に80年代はアフガンで義勇軍としてソ連と戦い、
90年代以降は先進諸国へのテロにその生涯を捧げた。

911同時多発テロ(聖火曜作戦)に対するアメリカの…またその同盟国の反応は過剰であった。時の大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュはテロとの戦争、その報復を声高に宣言し、アル・ゴアにかろうじて勝利した嫌われ者はこれにより9割の支持率を獲得した。しかしテロとは主体のない存在であり、ましてや国家のような体系を持たない。ゆえに対テロ作戦とは常に受動的に実行されるものである。例えばCounter-Strikeというゲームは爆破計画や人質立てこもりといった直面した危機に対する反転的な攻勢という対テロリズムの基本とその虚無主義を正確に描いているのである。

2001年10月7日アメリカは対テロ戦争の大義を掲げアフガンへと侵攻する。当初の戦略目的はテロ組織カーイダの殲滅であったが、96年以降アフガニスタンを統治していたターリバンはカーイダをムスリムの論理によって匿った為、報復に燃えるアメリカ市民や共和党タカ派の思惑の一致により事実上のアメリカ対アフガンの国家戦争へと発展する。テロリストを匿うRogue State(ならず者国家)に対し先制攻撃を行い息の根を止める事で将来的なテロを未然に防ぐ究極の自衛戦争としての国際侵略はこうして始まった。

テログループはあくまで私人にすぎず、攻撃はArmed AttackではなくUse of Force(武力攻撃ではなく武力の行使)に過ぎないという国際法上の懸念は爆撃の騒音によって既にかき消され、ターリバンは一瞬にして崩壊した。年内にはアメリカの支援により暫定政府が設置され、世界は平和になったのである。

JWBことジョージ・ウォーカー・ブッシュ
アメリカで高等教育を受けた後、戦時大統領を名乗り
ディック・チェイニーの懐を温める事に尽力するなどした。

2001年12月9日、アメリカ ダラスで開催されたCPL Winterは前評判通りNIPの優勝によって幕を閉じる。Ksharp率いるアメリカのXtreme3(後のTeam3D)をWBと決勝で2回下しての完全勝利であった。スウェーデンの大量破壊兵器ことNIPの不敗神話はこうして完成したのである。

イスラムの論理が西洋的な価値観と異なるように、99年から2001年までCounter-Strikeは欧州と北米で全く異なるゲームだった。これは単に比喩的な表現でなく、プレイするルール自体が全く違っていたのである。当時欧州のCSはChargers Only(CO)と呼ばれるルールがデファクトスタンダードになっており、実際にCPLオランダ/ロンドン/ベルリンは全ゲームCOで行われている。一方で2001年4月にダラスで開催されたCPLはBO24(13ラウンド先取)のルールが採用されている。

COとはいわゆるストップウォッチ式(時間制)のゲームで、各チームがそれぞれ持ち時間20分を使ってどれだけ攻撃(テロ)を成功させるかを競うルールである。このルールで特徴的なのはCT(対テロ)の勝利数を一切点数に計上しない点である。あくまでTが攻撃に成功した回数だけを点にするので攻撃側はとにかくダメ元でもプッシュし制限時間内でより多くのラウンドを回す必要がある。またCTの勝利がほぼ無価値であるのでイコラウンド(軍資金が少なく装備が満足に揃えられない局面)でTは全力で自殺的なラッシュをかけ素早く捨てゲーをするのが有効な戦術となる。

CPL 2001ベルリン決勝 CT Heaton視点
20分間ラウンド無制限のCOルール。
当時どのようなゲームだったかが分かる貴重なデモの一つである。

とにかくゲームを高速でブン回したいTと、短期的な勝利よりもとにかく時間を稼ぎ攻撃を凌ぐCTという非対称的かつ合理的なルール設計がCounter-Strikeという(Quakeに比べてスローな)ゲームの欧州の遊び方だったのである。一方でアメリカの完全ラウンド制Counter-StrikeはCTの勝利ラウンドとTの勝利ラウンドを全く同じ価値として取り扱うため、T側も遅延(焦らし)戦術や制限時間をめいっぱい使ってラウンドを戦う必要がある。

当時のCSにおける欧州ルールと北米ルールの違いは各国のフットボールの違いに近い。欧州は20分交代の計40分でゲームをノンストップにプレイするが、北米は各ラウンド最大3分 最長24ラウンド(~最長で70分程度)をタイムアウト含めて断続的にプレイする。つまりサッカーとアメフトのどちらかが良いかという究極的には好みの問題に過ぎなかったともいえる。

Thorinことダンカン・シールズは2015年に改めてCOルールの合理性を説いている。

とはいえアメリカにメッシを呼んでアメフトをさせたり、あるいはマホームズをフランスに呼んでサッカーをさせるような人間は現実にいないわけで、国際的なルール統一の気運は既にあった。そして歴史がそれを証明しているように結果的には北米ルールがCounter-Strikeの国際的な競技ルールの基準となっていった。

その直接的なきっかけとなったのが911アメリカ同時多発テロである。テロの成功のみを得点として競うCOルールがテロルの肯定や賛美と見做される可能性を考慮し、対テロ陣営(守備)の成功も同様に得点として扱う「イデオロギー的に正しい」北米ルールが採用されるようになったのである。2001年時点でNIPを含む欧州のチームやコミュニティはCPLの北米ルールを批判し抵抗し続けていたが、9月11日以降はテロリズムを主題とするゲームというそのあまりにもデリケートな存在を存続させるためにも致し方なしと統一を受け入れていった。

BO24 13ラウンド先取の北米ルールはその後、ピストルラウンドの勝利の価値が大きすぎる事を理由にBO30 16ラウンド先取に改定され、またそうするとゲーム時間が長くなりすぎた為、当初3分だったラウンド時間が短縮されていった。現在のComp CSルールは2004年頃にほぼフォーマット(BO30/各Round1:45)が完成し、その間にアメリカは「イラクは大量破壊兵器を保有している」という一切の根拠がないデマ情報をもとに2003年にイラク戦争へと踏切り、2003年末にはフセイン大統領を拘束。同時期にNIPを前身とするSK GamingはCPL Winter 2003を無敗で優勝した。

以降もアメリカは「復興支援」の名目で中東に軍を駐在させピンポイント爆撃による暗殺を繰り返しながら、ラーディンを執念で追い続け、そしてムスリムの社会を破壊し続けた。つまるところ対テロ戦争とは軍事力による「不正規戦」である。それは実体のないゲリラと実体のない正規軍がビデオゲームのように散発的に戦闘を行うものであるが、しかしビデオゲームと現実で大きく異なるのは後者は実際に血が流れる点だ。
ゼロ年代に中村哲は国際テロは先進国から生じる事、911同時多発テロによって生じた恐怖やショックの反動はメディアの印象操作によりアフガンに転嫁され、またこのように現在対テロ戦争という形式によってテロリズムは積極的に後進国に輸出されているのだと指摘している。

中村・哲
日本で高等教育を受けた後パキスタンで医療活動に従事
2003年以降はアフガンの水路建設事業に尽力した

実際に例えば、ザック・エブラヒムが2014年に発表した著書「テロリストの息子」の中で敬虔なムスリムの父がアメリカに移住し、そこで強姦の冤罪を着せられ地域社会から疎外された事をきっかけに自身の信仰する宗教的規範と先進国的価値観の文化的ギャップに苦悩し、その失意の中でラーディンの師であり対ソ連アフガン戦争時の指導者だったアブドゥッラー・ユースフ・アッザームや反ユダヤ主義の過激派指導者オマル・アブドッラフマーンといった人物らと出会い、ムスリム的アイデンティティを改めて確立していった様子が当事者の目線から描かれている。エブラヒムの父は名をエル・サイード・ノサイルと言い、カハネを暗殺し、世界貿易センタービルの爆破事件に関与した人物として広く知られている。

ザック・エブラヒム

2011年5月2日、パキスタンに潜伏していたラーディンはアメリカ大統領バラク・フセイン・オバマ2世の命を受けた特殊部隊に襲撃され抹殺される。アメリカは10年かけて遂に報復戦を完了させたのである。

2012年8月21日、Counter-Strike: Global Offensiveがリリースされる。また同時期には5年ぶりにNIPがチームブランドを復活させ、この新生NIPは年内に出場した大会のすべてで優勝を果たした。

2019年10月16日、Riot Gamesは初のFPS作品であるProject Aを発表する。Counter Strikeに影響を受けた競技志向の戦術的チームゲームである事がこの初報で明かされている。

2019年12月4日、中村哲がアフガンゲリラの襲撃を受け凶弾に倒れる、ターリバンは関与を否定している。

2020年6月2日、Project A改め正式名称Valorantがリリースされる。現行Counter Strike(CSGO)に対する不満や競技シーンにおけるチーム資本やプレイヤーの待遇格差などの潜在的な諸問題から多くのプレイヤーやチームが鞍替えを図る。またValorantは多くのCounter Strikeフォロワー(Crossfireなど)や、またCounter Strikeの直系の最新作であるCSGOと同様にいわゆる北米ルールを公式に採用した。

ValorantがCO…つまり2001年の欧州ルールを採用しなかった理由は時の試練によるところが大きいだろう。国際的にルールの標準化が起こった当初は単なるイデオロギー上の理由に過ぎなかったが、既にあれから20年近くが経ち、競技シーンの第一線で活躍するプレイヤーやオーガナイザーであの頃を知る者はむしろ少数派になり、多数派は古くから慣れ親しんだ伝統的なルールをその長い歴史という権威によって踏襲しているのである。

つまりCounter StrikeやValorantの現代的なフォーマットもまた間違いなく20年前のテロによる恐怖と怒りが引き起こしたレガシーの一部であると言えるだろう。当時を知らない若者や、あるいはそれを忘れていく老人、そしてこれから生まれてくるだろう新しい世代、彼らが個々の出来事を意識していなかったとしても、社会とはそうした具象的な認識の有無にかかわらず抽象的な形によってそれを記憶し文化として定着させるのである。

2021年8月30日、20年にわたるアフガン戦争終結。一時消滅したターリバンは農村の地域社会で支持基盤を得ながら復活し、米軍撤退と同時に全土を急速に掌握。外国軍の排除に成功した。
"Whoever stands by a just cause cannot possibly be called a terrorist."
「大義名分により立ちあがった者をテロリストと呼ぶ事は出来ない。」
-Yasser Arafat
シモン・ペレスとヤーセル・アラファト

2021年9月1日水曜日

Chargers Only 失われたCounter-Strikeの競技ルール

前史として90年代にQuake(Quakeworld)の4v4 TDMをインターネットやLanを通じてプレイする文化というのが生じた。当時こうしたチームはClanと呼ばれ、単純な競争原理により強力なプレイヤーは強力なクランを求めて結成され、またそうして生まれた強力なクランが強力なプレイヤーを獲得していった事で、各地に「ご当地最強クラン」が誕生する(北米のDeathrow、スウェーデンのClan9など)。

90年代当時のComp QW 4v4の標準的なフォーマットは1マップ20分のTime Limit TDMで、なぜかというと多数のチームが参加するオンライントーナメントを効率よく捌いていく場合にFrag Limit TDM(規定スコア到達で勝利)の場合は時間の見通しが立たず単純に不便だったからである。こうして競技シーンの下地が…特に欧州はQW Clan Tournament/Leagueをベースにして成立していった。またその後もQuakeは継続的にThreewave CTFやTeam Fortress(クラスベースCTF)といったチーム戦用のMODが(98~99年は主に旗取りゲームを中心に)開発されチーム戦という文化自体が活発化していく。

99年にリリースされた当初のCounter-Strikeはいわば変則的な旗取りゲーム(CTF)で、対テロ部隊が立てこもり犯の包囲を突破して人質を救出するというラウンド制のゲームだった(いわゆるcs_マップ)。同時代の類似作品(これもMOD)ではScience and Industryなどもあり、Beta1~3の頃は武器やスキンが当時としてはリアリスティックでユニークだったが、さほど革新的なゲームとはみなされていなかった。転機はおそらくCS Beta4で、ここで爆弾解除シナリオ(de_)が追加されると人気も爆発。当初はDust、Nuke、Prodigyの3マップしかなかったが、新マップはその後どんどん量産され、cs_siegeやcs_militiaのde_改造マップなども(誰かが勝手に)作られていった。

Beta5~7(99年後半から2000年の半ば)の頃にはもう欧州の有力なクランが続々と参入し、彼らのQW対戦などで培われたノウハウが活かされていく。つまり欧州のCSシーンはQWシーンの延長線上として始まったのでQWのフォーマット…つまり20分ゲームを基本としてルールが制度化されていた。当時欧州でプレイされていたルールはChargers Only(CO)と言い、各チーム20分交代でT(攻め)とCT(守り)を交代して1マップ計40分でプレイする。

現在主流となっているCSの競技ルール(BO30各ラウンド約2分)との最大の相違点は、完全時間制で20分の間であれば何ラウンドプレイしても構わないが、あくまでTの勝利ラウンドだけを点数として計上する事だろう。つまり20分の間に仮に20ラウンドをプレイしてその内の5回を爆破(CT殲滅)成功した場合(15ラウンドはCT勝利)も、20分の内に5ラウンドだけプレイしそのすべてで攻撃を成功させた場合(全ラウンドCT敗北)も同じ結果として扱うという事である。COルールの場合、駆け引きの焦点は「時間」となる。ラウンドを落とそうがとにかく時間内に1つでも多くトライしたいTと、無価値なラウンド勝利よりも1秒でも多く時間を稼ぐ事で攻めを凌ぎたいCTという双方の非対称な思惑がぶつかり合うのだ。

またCOルールの利点はゲーム時間が比較的予測しやすい(原則40分)というのもある。同時期に北米で採用されていたラウンド制ルール(BO24各ラウンド3分)の場合、最短13ラウンド(~39分)で終了するが、最大までもつれた場合24ラウンド(~72分)がかかる。このブレ幅はオープントーナメントなど大量のチームの対戦を管理する場合にとんでもなく効いてくる。

COのデメリットとしてはTが基本的にラッシュ一辺倒になり、読み合いを掛けながら時間をじっくり使って戦うという戦術が(評価的に)選択しづらく攻めの多様性に欠くという点がある。電撃戦主体のゲームはCounter-Strike(現実的な対テロ戦闘)的でないという批判だ。

極論を言えば、COルールも完全ラウンド制BO24(北米)ルールもあくまでそれは好みの違いに過ぎない。テロがガンガン自殺的にプッシュしてくる方がスピーディで面白いし大会運営側の都合としても合理的だが、トンネルでぐだぐだしてるDustやエントランスで延々はしごを昇ったり降りたりするNukeというのも実際趣がある。

もともとQuakeの時代から北米と欧州でしばしばルールが異なる(使用するクライアントの違いやbhopの減速ペナルティの有無など)事は既にあったが、Counter-Strikeも同様にこうした(今日的な感覚で言えば)特殊なルールが2000~2001年頃まで存在したのである。これもサイバースポーツの過渡期に起こる典型的な問題の事例といえよう。

歴史的事実として欧州/北米ルールの統一問題は最終的に2001年末にアメリカで開催されたCPL Winterの開催により半ばなし崩し的に北米ルールで標準化された。この際に欧州コミュニティの抗議は全く聞き入れられずアメリカのコミッショナーが強権的にそれを採用したのだが、金を出してる側に強く文句も言えず、欧州チーム…具体的には当時のNIPは仕方なくそれを飲む事になったし、彼らはそうした慣れないルールをほぼぶっつけ本番でプレイして当時北米で最強とされていたTeam3Dの前身チーム相手にストレート優勝している。ファックアメリカだぜ。

2002年になるとCOルールはDreamhackやLan Arenaといった欧州のトーナメントですら採用されなくなるのだが、この辺りの経緯や事情は結構複雑で単にアメリカ≒CPL(資本)に追従しただけではなく、当時のビデオゲーム(という文化)や社会を取り巻く「世相」が大きく関わってくるのだがそれについてはまた折に触れて紹介しようと思う。


-本稿は元々数年前にZineで発表したE-Sportsコラムの草稿を手直しした物です。
https://vgdrome.blogspot.com/2021/09/definitionofterrorismB.html
以上の(煩雑な)読み物のサブテキストや比較的簡易なまとめとして9/17に公開します。

ugh