2021年9月16日木曜日

Counter Strikeはなぜ16ラウンド先取なのか…あるいはValorantはなぜ13ラウンド先取ルールになったのか。


自由の国アメリカに生まれたユダヤ人メイル・カハネの人間的本質は悪漢(Rogue)である。ホロコーストを生き延びたユダヤ人難民の受け入れを拒否し続けたイギリスの外務大臣アーネスト・ベヴィンに抗議すべく生卵をぶつけて逮捕された瞬間に彼の活動家としての人生は始まった。カハネは新左翼運動の真っ只中である68年にユダヤ防衛同盟(JDL)を結成するとすぐさま頭角を現す。当初のJDLはニューヨークのローカルな自警団/互助グループに過ぎなかったとされる。地域に住むユダヤ人に向けられた不当な差別や敵意、暴力(ヘイトクライム)に対抗すべく「実力行使」も辞さなかったJDLは短期間に地域社会での支持基盤を得ると、その後は反ソビエト(反共)の時流的ムーブメントに乗り勢力を急速に拡大していく。

メイル・カハネ
Never Again(二度と起こすな)はJDLのスローガンだ

しかし反共とユダヤ人民族主義に裏付けられたカハネの思想は先鋭化し、その行動もまた急速に過激化していく。71年に爆弾製造の廉で逮捕された後、カハネはイスラエルのユダヤ人入植地へ移住し、そこでもパレスチナ人へのテロ攻撃を計画した容疑で逮捕されるなどその後10年間で60回以上も逮捕されるが、80年代になって反イスラムの過激な民族/排外主義を掲げる超国家主義者として議会政治の舞台へと進出する…いわゆるカハニズム(カハネ主義)である。

90年11月5日、カハネはアメリカ マンハッタンでザイオニスト達に向けてスピーチを行った後、ユダヤ人に変装した男に拳銃で首を撃たれ絶命する。前後して88年に彼をリーダーとするカハ党は人種差別を理由に選挙への出馬を禁止され、また党首を失った事でカハ党とカハネハイ党(カハネは生きている)に分裂するが、90年代には両政党は憎悪扇動を理由に存在そのものを禁止された。今日ではカハネの肖像やカハのシンボルを掲げる事は、ナチやヒトラーと同様に国際的なタブーとされている。

93年2月26日、世界貿易センタービルの地下駐車場がわずか数百ドルを用立てて作られた車爆弾の炸裂によって木っ端微塵になった。このテロはウサマ・ビン・ラーディン率いるアルカーイダとオマル・アブドッラフマーン率いるイスラム集団(IG)の組織/思想的関与によって行われており、その計画立案は誇大妄想の叔父に単身アメリカへ送り込まれた爆弾のスペシャリスト ラムジー・ユセフと当時服役中だったエジプト移民のアメリカ人 エル・サイード・ノサイルとその仲間達を中心にして行われたとされる。

ラムジー・ユセフ
イギリスで高等教育を受けた後、カーイダで爆発物の訓練を受け戦士となった。

95年、メディア中毒の誇大妄想家ハリド・シェイク・モハメドによる壮大な世界同時テロ計画が失敗する。フィリピンを訪問する教皇ヨハネ・パウロ二世を暗殺し、立て続けに世界中の旅客機11台を爆破、最後に商用パイロットの経験を持つアブドゥル・ハキム・ムラドにハイジャックさせた旅客機を使ってCIA本部を自爆攻撃し、エアラインの安全神話を、延いては既存の西洋文明を恐怖のどん底に叩き落とす筈だったが、フィリピンの潜伏先アジトがムラドの不注意から出火。モハメドの計画は中止され、甥のラムジー・ユセフと共に国外逃亡するも翌年にはパキスタンでユセフが逮捕される。

アジトに残されたユセフの東芝製ラップトップからは爆弾の製造法やテロ計画に関する文書が発見されている。そこにはイスラエルを支持するアメリカと、またそのアメリカを支持する各国の直接/間接的な外交政策、それらの国の人々に当然政府の行動責任があるという事、ゆえにアメリカ帝国主義の内外で自分達が無差別な攻撃を行うというマニフェストが記されていた。民間旅客機同時爆破作戦 コードネーム ボジンカはこうして未遂に終わった。

99年、ベトナム戦争の戦禍を逃れて難民としてカナダへ渡ったGoosemanことミン・リーはこの頃既にインターネットでは優秀なアマチュアのガンデザイナーと目されていた。銃器設計のスペシャリストといっても、彼が作るのはあくまでビデオゲームの武器であって実銃ではない。モデルガンのマニアだったリーは当時はまだ珍しかったFPSの実銃ゲーム移植に尽力し、既にAction Quake2という大人気MODの銃モデルやその動作、射撃感をほぼ一人でデザインし実装していた。

ミン・リー
戦災難民として母国を離れカナダで高等教育を受けテロを主題としたゲームを製作する

大学4年生になったリーは人気ゲームHalf-LifeのModとしてテロリズムをテーマにした新しい作品を開発し始める。それはマニアらしい銃や装備への偏執的な拘りによりモデルはほぼ一から自身で制作され、テロリストと対テロ特殊部隊の戦闘、実際のテログループや歴史上の事件などを参考に現実的なシナリオ(立て籠もり犯への人質救出を目的とした強襲作戦)を元にしつつも、あくまでゲームらしいスピーディなチームベースの対戦ゲームとして仕上げていく。最終的にリーは本作にCounter-Strikeという造語を名づけインターネットに公開する。

2000年12月10日、Cyberathlete Professional League(CPL)による最初のCounter StrikeトーナメントをClanZが優勝する。Counter-StrikeのMOD公開から1年半が経ち、その爆発的な人気に応えて遂に賞金トーナメントが開催されるまでになっていた。ClanZはQuake Worldの時代から活動する老舗の競技ゲームグループだったが、それは当時欧州最強と謳われたスウェーデンの全身凶器Ninjas in Pyjamas(NIP)のHeatonが年齢制限(16歳以下)に引っ掛かりフルメンバーでの出場が出来なかったおかげで棚ぼた的に得られた優勝でもあった。

2001年5月13日、CPLオランダを元NIPのHeaton、Hyb、Medionを擁する「ほぼNIP」のSpirit of Amigaが優勝。

2001年8月5日、CPLロンドンを再結成したNIPが優勝、オランダでの優勝メンバーに元NIPのPottiが再合流しXeqtRを擁立した2001年の最新最強NIPであった。

2001年9月2日、CPLベルリンをNIPが優勝。ロンドンと同一メンバーによる優勝で、もはや欧州に敵はいないとすら考えられていた。最終決戦はアメリカで12月に開催されるCPL Winter Championshipを残すのみとなった。

Heatonことエミル・クリステンセン
弱冠15歳でシーンに登場し、当時無敵の強さを誇った

2001年9月11日、民間航空機4機の同時ハイジャック及び、それらを用いた建造物への同時自爆攻撃がアメリカで行われる。標的となったのは世界貿易センタービル、国防省、ホワイトハウス。ハイジャックされた4機の航空機は乗員/乗客とテロリスト含め全員死亡。自爆攻撃は途中で墜落したユナイテッド93便を除く3機が成功し、世界貿易センタービルが全壊、国防省本庁舎が被害を受けた。


ウサマ・ビン・ラーディン率いるカーイダは90年代後半にボジンカ計画の失敗により失意に沈んでいた誇大妄想のメディア中毒者ハリド・シェイク・モハメドをよりにもよってカーイダのメディア/広報担当に採用する。モハメドはまだボジンカを諦めておらず、ボジンカ計画の発展となるハイジャック自爆テロ計画を再三再四ラーディンに進言し、最終的にラーディンは「ジハード宣言」を行ったと同時期に後の聖火曜作戦を承認した。モハメドの悲願は当初の想定規模を下回ってこそいたが21世紀になり遂に達成されたのだった。

KSMことハリド・シェイク・モハメド
アメリカで高等教育を受けた後に80年代はアフガンで義勇軍としてソ連と戦い、
90年代以降は先進諸国へのテロにその生涯を捧げた。

911同時多発テロ(聖火曜作戦)に対するアメリカの…またその同盟国の反応は過剰であった。時の大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュはテロとの戦争、その報復を声高に宣言し、アル・ゴアにかろうじて勝利した嫌われ者はこれにより9割の支持率を獲得した。しかしテロとは主体のない存在であり、ましてや国家のような体系を持たない。ゆえに対テロ作戦とは常に受動的に実行されるものである。例えばCounter-Strikeというゲームは爆破計画や人質立てこもりといった直面した危機に対する反転的な攻勢という対テロリズムの基本とその虚無主義を正確に描いているのである。

2001年10月7日アメリカは対テロ戦争の大義を掲げアフガンへと侵攻する。当初の戦略目的はテロ組織カーイダの殲滅であったが、96年以降アフガニスタンを統治していたターリバンはカーイダをムスリムの論理によって匿った為、報復に燃えるアメリカ市民や共和党タカ派の思惑の一致により事実上のアメリカ対アフガンの国家戦争へと発展する。テロリストを匿うRogue State(ならず者国家)に対し先制攻撃を行い息の根を止める事で将来的なテロを未然に防ぐ究極の自衛戦争としての国際侵略はこうして始まった。

テログループはあくまで私人にすぎず、攻撃はArmed AttackではなくUse of Force(武力攻撃ではなく武力の行使)に過ぎないという国際法上の懸念は爆撃の騒音によって既にかき消され、ターリバンは一瞬にして崩壊した。年内にはアメリカの支援により暫定政府が設置され、世界は平和になったのである。

JWBことジョージ・ウォーカー・ブッシュ
アメリカで高等教育を受けた後、戦時大統領を名乗り
ディック・チェイニーの懐を温める事に尽力するなどした。

2001年12月9日、アメリカ ダラスで開催されたCPL Winterは前評判通りNIPの優勝によって幕を閉じる。Ksharp率いるアメリカのXtreme3(後のTeam3D)をWBと決勝で2回下しての完全勝利であった。スウェーデンの大量破壊兵器ことNIPの不敗神話はこうして完成したのである。

イスラムの論理が西洋的な価値観と異なるように、99年から2001年までCounter-Strikeは欧州と北米で全く異なるゲームだった。これは単に比喩的な表現でなく、プレイするルール自体が全く違っていたのである。当時欧州のCSはChargers Only(CO)と呼ばれるルールがデファクトスタンダードになっており、実際にCPLオランダ/ロンドン/ベルリンは全ゲームCOで行われている。一方で2001年4月にダラスで開催されたCPLはBO24(13ラウンド先取)のルールが採用されている。

COとはいわゆるストップウォッチ式(時間制)のゲームで、各チームがそれぞれ持ち時間20分を使ってどれだけ攻撃(テロ)を成功させるかを競うルールである。このルールで特徴的なのはCT(対テロ)の勝利数を一切点数に計上しない点である。あくまでTが攻撃に成功した回数だけを点にするので攻撃側はとにかくダメ元でもプッシュし制限時間内でより多くのラウンドを回す必要がある。またCTの勝利がほぼ無価値であるのでイコラウンド(軍資金が少なく装備が満足に揃えられない局面)でTは全力で自殺的なラッシュをかけ素早く捨てゲーをするのが有効な戦術となる。

CPL 2001ベルリン決勝 CT Heaton視点
20分間ラウンド無制限のCOルール。
当時どのようなゲームだったかが分かる貴重なデモの一つである。

とにかくゲームを高速でブン回したいTと、短期的な勝利よりもとにかく時間を稼ぎ攻撃を凌ぐCTという非対称的かつ合理的なルール設計がCounter-Strikeという(Quakeに比べてスローな)ゲームの欧州の遊び方だったのである。一方でアメリカの完全ラウンド制Counter-StrikeはCTの勝利ラウンドとTの勝利ラウンドを全く同じ価値として取り扱うため、T側も遅延(焦らし)戦術や制限時間をめいっぱい使ってラウンドを戦う必要がある。

当時のCSにおける欧州ルールと北米ルールの違いは各国のフットボールの違いに近い。欧州は20分交代の計40分でゲームをノンストップにプレイするが、北米は各ラウンド最大3分 最長24ラウンド(~最長で70分程度)をタイムアウト含めて断続的にプレイする。つまりサッカーとアメフトのどちらかが良いかという究極的には好みの問題に過ぎなかったともいえる。

Thorinことダンカン・シールズは2015年に改めてCOルールの合理性を説いている。

とはいえアメリカにメッシを呼んでアメフトをさせたり、あるいはマホームズをフランスに呼んでサッカーをさせるような人間は現実にいないわけで、国際的なルール統一の気運は既にあった。そして歴史がそれを証明しているように結果的には北米ルールがCounter-Strikeの国際的な競技ルールの基準となっていった。

その直接的なきっかけとなったのが911アメリカ同時多発テロである。テロの成功のみを得点として競うCOルールがテロルの肯定や賛美と見做される可能性を考慮し、対テロ陣営(守備)の成功も同様に得点として扱う「イデオロギー的に正しい」北米ルールが採用されるようになったのである。2001年時点でNIPを含む欧州のチームやコミュニティはCPLの北米ルールを批判し抵抗し続けていたが、9月11日以降はテロリズムを主題とするゲームというそのあまりにもデリケートな存在を存続させるためにも致し方なしと統一を受け入れていった。

BO24 13ラウンド先取の北米ルールはその後、ピストルラウンドの勝利の価値が大きすぎる事を理由にBO30 16ラウンド先取に改定され、またそうするとゲーム時間が長くなりすぎた為、当初3分だったラウンド時間が短縮されていった。現在のComp CSルールは2004年頃にほぼフォーマット(BO30/各Round1:45)が完成し、その間にアメリカは「イラクは大量破壊兵器を保有している」という一切の根拠がないデマ情報をもとに2003年にイラク戦争へと踏切り、2003年末にはフセイン大統領を拘束。同時期にNIPを前身とするSK GamingはCPL Winter 2003を無敗で優勝した。

以降もアメリカは「復興支援」の名目で中東に軍を駐在させピンポイント爆撃による暗殺を繰り返しながら、ラーディンを執念で追い続け、そしてムスリムの社会を破壊し続けた。つまるところ対テロ戦争とは軍事力による「不正規戦」である。それは実体のないゲリラと実体のない正規軍がビデオゲームのように散発的に戦闘を行うものであるが、しかしビデオゲームと現実で大きく異なるのは後者は実際に血が流れる点だ。
ゼロ年代に中村哲は国際テロは先進国から生じる事、911同時多発テロによって生じた恐怖やショックの反動はメディアの印象操作によりアフガンに転嫁され、またこのように現在対テロ戦争という形式によってテロリズムは積極的に後進国に輸出されているのだと指摘している。

中村・哲
日本で高等教育を受けた後パキスタンで医療活動に従事
2003年以降はアフガンの水路建設事業に尽力した

実際に例えば、ザック・エブラヒムが2014年に発表した著書「テロリストの息子」の中で敬虔なムスリムの父がアメリカに移住し、そこで強姦の冤罪を着せられ地域社会から疎外された事をきっかけに自身の信仰する宗教的規範と先進国的価値観の文化的ギャップに苦悩し、その失意の中でラーディンの師であり対ソ連アフガン戦争時の指導者だったアブドゥッラー・ユースフ・アッザームや反ユダヤ主義の過激派指導者オマル・アブドッラフマーンといった人物らと出会い、ムスリム的アイデンティティを改めて確立していった様子が当事者の目線から描かれている。エブラヒムの父は名をエル・サイード・ノサイルと言い、カハネを暗殺し、世界貿易センタービルの爆破事件に関与した人物として広く知られている。

ザック・エブラヒム

2011年5月2日、パキスタンに潜伏していたラーディンはアメリカ大統領バラク・フセイン・オバマ2世の命を受けた特殊部隊に襲撃され抹殺される。アメリカは10年かけて遂に報復戦を完了させたのである。

2012年8月21日、Counter-Strike: Global Offensiveがリリースされる。また同時期には5年ぶりにNIPがチームブランドを復活させ、この新生NIPは年内に出場した大会のすべてで優勝を果たした。

2019年10月16日、Riot Gamesは初のFPS作品であるProject Aを発表する。Counter Strikeに影響を受けた競技志向の戦術的チームゲームである事がこの初報で明かされている。

2019年12月4日、中村哲がアフガンゲリラの襲撃を受け凶弾に倒れる、ターリバンは関与を否定している。

2020年6月2日、Project A改め正式名称Valorantがリリースされる。現行Counter Strike(CSGO)に対する不満や競技シーンにおけるチーム資本やプレイヤーの待遇格差などの潜在的な諸問題から多くのプレイヤーやチームが鞍替えを図る。またValorantは多くのCounter Strikeフォロワー(Crossfireなど)や、またCounter Strikeの直系の最新作であるCSGOと同様にいわゆる北米ルールを公式に採用した。

ValorantがCO…つまり2001年の欧州ルールを採用しなかった理由は時の試練によるところが大きいだろう。国際的にルールの標準化が起こった当初は単なるイデオロギー上の理由に過ぎなかったが、既にあれから20年近くが経ち、競技シーンの第一線で活躍するプレイヤーやオーガナイザーであの頃を知る者はむしろ少数派になり、多数派は古くから慣れ親しんだ伝統的なルールをその長い歴史という権威によって踏襲しているのである。

つまりCounter StrikeやValorantの現代的なフォーマットもまた間違いなく20年前のテロによる恐怖と怒りが引き起こしたレガシーの一部であると言えるだろう。当時を知らない若者や、あるいはそれを忘れていく老人、そしてこれから生まれてくるだろう新しい世代、彼らが個々の出来事を意識していなかったとしても、社会とはそうした具象的な認識の有無にかかわらず抽象的な形によってそれを記憶し文化として定着させるのである。

2021年8月30日、20年にわたるアフガン戦争終結。一時消滅したターリバンは農村の地域社会で支持基盤を得ながら復活し、米軍撤退と同時に全土を急速に掌握。外国軍の排除に成功した。
"Whoever stands by a just cause cannot possibly be called a terrorist."
「大義名分により立ちあがった者をテロリストと呼ぶ事は出来ない。」
-Yasser Arafat
シモン・ペレスとヤーセル・アラファト

2021年9月1日水曜日

Chargers Only 失われたCounter-Strikeの競技ルール

前史として90年代にQuake(Quakeworld)の4v4 TDMをインターネットやLanを通じてプレイする文化というのが生じた。当時こうしたチームはClanと呼ばれ、単純な競争原理により強力なプレイヤーは強力なクランを求めて結成され、またそうして生まれた強力なクランが強力なプレイヤーを獲得していった事で、各地に「ご当地最強クラン」が誕生する(北米のDeathrow、スウェーデンのClan9など)。

90年代当時のComp QW 4v4の標準的なフォーマットは1マップ20分のTime Limit TDMで、なぜかというと多数のチームが参加するオンライントーナメントを効率よく捌いていく場合にFrag Limit TDM(規定スコア到達で勝利)の場合は時間の見通しが立たず単純に不便だったからである。こうして競技シーンの下地が…特に欧州はQW Clan Tournament/Leagueをベースにして成立していった。またその後もQuakeは継続的にThreewave CTFやTeam Fortress(クラスベースCTF)といったチーム戦用のMODが(98~99年は主に旗取りゲームを中心に)開発されチーム戦という文化自体が活発化していく。

99年にリリースされた当初のCounter-Strikeはいわば変則的な旗取りゲーム(CTF)で、対テロ部隊が立てこもり犯の包囲を突破して人質を救出するというラウンド制のゲームだった(いわゆるcs_マップ)。同時代の類似作品(これもMOD)ではScience and Industryなどもあり、Beta1~3の頃は武器やスキンが当時としてはリアリスティックでユニークだったが、さほど革新的なゲームとはみなされていなかった。転機はおそらくCS Beta4で、ここで爆弾解除シナリオ(de_)が追加されると人気も爆発。当初はDust、Nuke、Prodigyの3マップしかなかったが、新マップはその後どんどん量産され、cs_siegeやcs_militiaのde_改造マップなども(誰かが勝手に)作られていった。

Beta5~7(99年後半から2000年の半ば)の頃にはもう欧州の有力なクランが続々と参入し、彼らのQW対戦などで培われたノウハウが活かされていく。つまり欧州のCSシーンはQWシーンの延長線上として始まったのでQWのフォーマット…つまり20分ゲームを基本としてルールが制度化されていた。当時欧州でプレイされていたルールはChargers Only(CO)と言い、各チーム20分交代でT(攻め)とCT(守り)を交代して1マップ計40分でプレイする。

現在主流となっているCSの競技ルール(BO30各ラウンド約2分)との最大の相違点は、完全時間制で20分の間であれば何ラウンドプレイしても構わないが、あくまでTの勝利ラウンドだけを点数として計上する事だろう。つまり20分の間に仮に20ラウンドをプレイしてその内の5回を爆破(CT殲滅)成功した場合(15ラウンドはCT勝利)も、20分の内に5ラウンドだけプレイしそのすべてで攻撃を成功させた場合(全ラウンドCT敗北)も同じ結果として扱うという事である。COルールの場合、駆け引きの焦点は「時間」となる。ラウンドを落とそうがとにかく時間内に1つでも多くトライしたいTと、無価値なラウンド勝利よりも1秒でも多く時間を稼ぐ事で攻めを凌ぎたいCTという双方の非対称な思惑がぶつかり合うのだ。

またCOルールの利点はゲーム時間が比較的予測しやすい(原則40分)というのもある。同時期に北米で採用されていたラウンド制ルール(BO24各ラウンド3分)の場合、最短13ラウンド(~39分)で終了するが、最大までもつれた場合24ラウンド(~72分)がかかる。このブレ幅はオープントーナメントなど大量のチームの対戦を管理する場合にとんでもなく効いてくる。

COのデメリットとしてはTが基本的にラッシュ一辺倒になり、読み合いを掛けながら時間をじっくり使って戦うという戦術が(評価的に)選択しづらく攻めの多様性に欠くという点がある。電撃戦主体のゲームはCounter-Strike(現実的な対テロ戦闘)的でないという批判だ。

極論を言えば、COルールも完全ラウンド制BO24(北米)ルールもあくまでそれは好みの違いに過ぎない。テロがガンガン自殺的にプッシュしてくる方がスピーディで面白いし大会運営側の都合としても合理的だが、トンネルでぐだぐだしてるDustやエントランスで延々はしごを昇ったり降りたりするNukeというのも実際趣がある。

もともとQuakeの時代から北米と欧州でしばしばルールが異なる(使用するクライアントの違いやbhopの減速ペナルティの有無など)事は既にあったが、Counter-Strikeも同様にこうした(今日的な感覚で言えば)特殊なルールが2000~2001年頃まで存在したのである。これもサイバースポーツの過渡期に起こる典型的な問題の事例といえよう。

歴史的事実として欧州/北米ルールの統一問題は最終的に2001年末にアメリカで開催されたCPL Winterの開催により半ばなし崩し的に北米ルールで標準化された。この際に欧州コミュニティの抗議は全く聞き入れられずアメリカのコミッショナーが強権的にそれを採用したのだが、金を出してる側に強く文句も言えず、欧州チーム…具体的には当時のNIPは仕方なくそれを飲む事になったし、彼らはそうした慣れないルールをほぼぶっつけ本番でプレイして当時北米で最強とされていたTeam3Dの前身チーム相手にストレート優勝している。ファックアメリカだぜ。

2002年になるとCOルールはDreamhackやLan Arenaといった欧州のトーナメントですら採用されなくなるのだが、この辺りの経緯や事情は結構複雑で単にアメリカ≒CPL(資本)に追従しただけではなく、当時のビデオゲーム(という文化)や社会を取り巻く「世相」が大きく関わってくるのだがそれについてはまた折に触れて紹介しようと思う。


-本稿は元々数年前にZineで発表したE-Sportsコラムの草稿を手直しした物です。
https://vgdrome.blogspot.com/2021/09/definitionofterrorismB.html
以上の(煩雑な)読み物のサブテキストや比較的簡易なまとめとして9/17に公開します。

2021年7月21日水曜日

90年代サブカル帝国の逆襲

"We were young, we were foolish, we were arrogant, but we were right."
   「我々は若く愚かで傲慢だったが、しかし正しかった。」
-Abbie Hoffman

小山田圭吾は四半世紀前に行った「いじめ加害の回顧」を元に糾弾され遂にステートメントを公表し、また五輪開会式作曲担当を辞任した。かつて若く愚かで傲慢だった男は中年になり、五輪という国家主義で粉飾した薄汚い資本主義の欺瞞に満ちた祭典に魂を売り堕したが、ポストフリッパーズギター、コーネリアスこと26歳の反逆児 小山田圭吾によって無事それは阻止されたのである。

結果的に90年代の(露)悪趣味ブーム、鬼畜系と呼ばれるような虚無主義による静的反体制ムーブメントは時空を超えて虚ろな態度で大量消費文化に迎合する邪悪な中年男性の台頭を抑えたが、同時に現代に生きる人々はそのショッキングで恐ろしい、怒りと羞恥を掻き立てる読み物の数々にも否定的な反応を示した。

「絶対に許せない」
ショッキラスに襲われた唯一の生存者が記者会見で語ったように、自慢話でもするように過去の悪徳を赤裸々に語ってみせる小山田、またそうした過度に攻撃的な内容を平然と掲載する当時の出版業界に人々は怒りを露わにした。

それはごく当然の反応であり時代を越えた普遍的なものであるように僕は思う。今回の件で当時の日本は今より野蛮で人々は狂気に満ちていて「いじめ」というものに肯定的であったといった滅茶苦茶な物言いすら見かけたが、おそらくそうではない。悪趣味ブームがカルチャージャミングの4大反応「驚愕」「恐れ」「怒り」「羞恥」を意図的に読者から発生させようとしていた事は間違いなく、その程度に差はあったかもしれないが現在と同様の反応を当時もそれは引き出している。

だとすれば、あの頃なぜそのような(今日的な感覚では忌避される)表現を好んで行ったかという点にのみ疑問が残る。つまりわざと露悪的に振る舞ってみせる態度にどのような文脈があるのかという事だ。

歴史とは連続体であり、悪趣味ブームが今日のサブカルチャーのいわば前史であるように、悪趣味ブームにもその前史となるものが当然あるだろう。ある区間の歴史を切り取り示す事はホールケーキを三等分するのと同様に極めて困難な未解決問題だが、誰もがそうするように僕もそれをまずは半分に切ってみようと思う。

60年代は新左翼の時代でありアナキズムの時代であった。その原動力は主に前世代的な規範、価値観に対する反父権主義と少数派へのシンパシーである。前者は共産党(既成左翼)を含む議会政治に対する反動となり、より直接的な行動と様々な実験的メディアハック戦略を実践する。また後者によりウーマンリブや50年代から続くアフロアメリカンの公民権運動などに白人男性の大学生や青年労働者が同調していく事になる。そこには帝国ロシアの貴族出身でありながら、ロシアにより母国語の使用を禁止されるなど著しい弾圧を受けていたポーランドなど帝国主義の犠牲者であった諸外国の為に戦った19世紀の革命家バクーニンと同種の機微があったと見てよいだろう。

ミハイル・バクーニン


自身と異なる属性(国、人種、性別など)の人間にほど強く感情移入し肩入れする病的なへそ曲がりのカリスマが一定の周期で歴史に登場する。彼らは自分たちが属するある時代、ある場所の「秩序」を生来の性質によって理由なく否定する。理由なくとは言ったが彼らがカリスマたる所以はそうした「反転」が周囲の人々を巻き込んで伝搬するという点にある。彼らはしばしば魅力的で嘘つきでとにかくやたらに弁が立ち、一般に考えられる常識と真逆の事を実にチャーミングな形でしてみせる。

YIPの創設者の一人アビー・ホフマンは67年の夏に他の抗議者を引き連れニューヨーク証券取引所を訪れると、警備員の制止を振り切り用意したごく僅かなドル紙幣と大量の偽札をトレーダ―に向かってばらまいた。この事件はすぐに新聞社など多くの「メディア」によって大々的に報道され世間の関心を集める事となった。

ホフマンの行動に眉を顰める人々がいたのは間違いない。若く愚かで傲慢な男が明らかな犯罪、迷惑行為を働くさまに驚愕し、もしそれが自分の身に降りかかったらと想像して恐れ、その不誠実な態度に怒り、この自分勝手な若者の姿に過去の自分を見出して恥じたことだろう。またホフマンが紙幣の偽造や不法侵入に威力業務妨害といった犯罪を行ったのは彼がいわば「反社会的な人間」であるからだが、彼がこうした「行動」を通じて世に問うたのは人間を労働力と言う「商品」として扱い、人と人が作った物(カネ)の主従を反転させてしまう現代資本主義の在り方、その極致たるマネーゲームの鉄火場を文字通り贋金拾いに過ぎないと視覚的に明らかな形にして喩えたのである。

ホフマンの生き方はさながらチキンレースを生き甲斐かあるいは死に甲斐とした50年代の若い刹那主義者のようであるが、理由なき反抗と目されたそれとの違いは、まさにその動機のエクスキューズにある。彼の反抗、その行動や手法は逐一反大量消費社会、反帝国主義の名目の基に正当化されている。これはホフマンに限らず同時代のアナキストが採用したアイデアであり、この時代の反体制、抵抗側の一種の秩序といえるだろう。

69年に社会学者ヨハン・ガルトゥングは構造的暴力という概念を提唱している。人種差別や性差別、階級差別に起因するある種の暴力は加害者(あるいは被害者)個人の問題以上に、制度化された「社会」によって引き起こされているという考え方だ。非常にシンプルでありふれた例としては何十人もの子供を「教室」という一つの閉じた空間に長時間押し込めば、その中で次第に「階級」や「役割」といった社会性が生じて、人種や障害の有無などの差異を理由としていじめが必然的に発生する。

ヨハン・ガルトゥング


構造的暴力は特定の加害者や被害者、あるいはその両方を疎外したとて真に問題を解決できない。一時的に止むかもしれないが環境が変化しない限り同様の問題はすぐに発生する。抜本的問題を解決するにはその(半ば固定化された)構造を変化させるしかないのだ。

同時代のアナキストはこうした「構造的暴力」、すなわち既存の(資本主義)社会がもたらす巨大な隠蔽された虐待の仕組みをまず明らかにし、そして究極はそれを変革することで打倒するのだと考えた。警察による暴力は警察官個人の暴力ではなく、警察という暴力装置によって引き起され、貧困は企業や延いてはキャピタリズムによって行われる。ゆえにそうした実体のない「構造」と活動家個人が戦う場合、個人の暴力は構造的暴力に対する自己防衛として時に正当化されるとも彼らは論じている。

例えば帝国主義的企業により不当な賃金で酷使される(すなわち既に搾取され虐待されている)労働者が蜂起を起こし、企業の施設から略奪を行う事は単にそれを取り返しているのに過ぎないという事だ。ナチスはかつてユダヤ人収容所に「労働で自由を」というスローガンを掲げていたが、彼らが過酷な強制労働を経てその後どうなったかを考えるべきだろう。ナチスは構造的暴力という概念を示す最も分かりやすい例の一つである。「各人に各人の所有すべきものを」を実行するには個人による直接的行動、すなわち暴力の行使が必要だと彼らは確信していた。

Jedem das Seineとはナチのモットーで「各人に各人の所有すべきものを」と訳される


「この本を盗め」はアビー・ホフマンによる71年の著書である。とりあえず、まず想像してみて欲しいのは、書店に「万引きしろ!」と書かれた本が並ぶ事のエキサイティングな暗い喜びだ。「メディア濫用」に憑りつかれた男の代表作にして後のカルチャージャミングという概念の例示的モデルが「この本を盗め」である。

この本を盗め


その内容は隣人にメシをたかる方法から爆弾の作り方まで多岐にわたるが、その挑発的なタイトルの通り、スーパーマーケットでの万引きの仕方などが実践的な形式でレクチャーされている。ホフマンはアメリカという国(構造)を豚の帝国と称し、豚から人が盗みを働く事は決して不道徳ではないと強い異化効果を持って語っている。既に社会から多くの物を奪われて「疎外」された人々はむしろ積極的に奴らからそれを取り返すべきなのだとちょうど今から半世紀前、カリスマは悪びれずに言ったのだ。

しかし新左翼運動と暴力的アナキズムの興隆はさして長くは続かなかった。理想主義とともに持て余したエネルギーはまさに爆弾のようであったが、実際にそれが爆発して犠牲者を生むようになるとやがて大衆の支持を失い、組織的にも、思想的にもその解体が急速に進んでいく。70~80年代の世界的なパンク/ハードコアムーブメントの時代がその(思想的な)余波にあった事は間違いないが、それはせいぜいBBC2のジョン・ピールが執心した程度のサブカルチャーに過ぎない規模であった。

ジョン・ピール


90年代のオルタナムーブメントに最も影響を与えたとされるアメリカのハードコアパンクバンドHusker Duは83年にMetal Circusという作品を発表している。そのA面1曲目に収録されているReal Worldの歌詞はアナーコパンク/ハードコアといった無政府主義を標榜する同時代のバンドらを真っ向から否定する。

よそのバンドは既存の法やルールを破り暴力を行使して世界革命を成し遂げるのだとアジったり威嚇的なショッキングで恐ろしいレトリックを用いたりするが、そういうのは自分はまっぴらごめんで、誰かをレイプしたり、略奪したりとか他人の生活を脅かすような真似も自分はしない。夜は家に鍵をかけて過ごすだけだという内容だ。こうした軟弱でノンポリな姿勢をハードコアというシーンに属しながらあえて明確にした事に反転があり斬新だった。

Husker DuのReal World

所属レーベルのSSTにとってもこれは大きな転換点であった。60年代的アナキズムは万引きというションベン刑もつかないようなちんけな犯罪を反帝国主義の為の自己防衛的行動だと再定義したが、企業や政府という漠然とした敵対的存在の前にそこには常に人がいて、その人生が立ちはだかる。ゆえにそれを傷つける事の不本意、ジレンマに対する苦悩は常にあったのだが、それならもういっそ思想を捨て人畜無害な存在になる事の方が人として正しいのではないかと気付いたのだ。

アナキズム的発想に基づく80年代の音楽ジャンルにPlunderphonics(音の略奪)というものがある。元々はジョン・オズワルドが自身の音楽をそう提唱したものだが、方法論としては既存の良く知られたあらゆる音を明け透けにサンプリング/コラージュして作る音楽で、そのジャンル名から分かる通り、「道徳的」な問題に対し自覚的かつ非常に露悪的な態度を示している。

ジョン・オズワルド

アメリカにはNegativlandというPlunderphonicsの代名詞とも言えるバンドがいる。SSTからのリリースで広く知られるこのバンドは84年にカルチャージャミング(文化妨害)という概念を提唱した。カルチャージャミングとは一種の「反転」を目的とした行為で、大量消費文化や商業主義に基づく既存の概念、その裏に潜む「構造的な問題」をしばしばショッキングでユーモラスな手法によって明かし批判する。

NegativlandのI Still Haven't Found What I'm Looking For
U2の同名の楽曲などを敵対的にサンプリングして使用している

カルチャージャミングの本質は端的に言いうと「いたずら」である。既存の企業ロゴや宣伝材料を本来は(商業的理由から)使われないような方法で無断に使用する。例えばダイエット広告のビフォーアフター図で示されるブクブクに太ったみっともない肥満男性の写真を切り取り、マクドナルドなどのファーストフード企業のロゴをまたカットして添えたとしよう、鑑賞者はその2つの要素をネガティブな結びつきでもって捉えるはずである。しかしこれは実の所、普段巧妙に隠蔽されている現実、つまりはファーストフードばかり食べている人間と企業が広告で使用するタレントの姿、これらの印象がしばしば事実と異なっている事、延いては肥満を製造する一方でそれに対する内省を行わないファーストフードチェーンの怠惰を白日の下に晒す。

嶋大輔(Rizapの宣伝素材)の乳首をマクドナルドのロゴで隠したイメージ

Plunderphonicsとカルチャージャミングは共にしばしば著作権侵害という犯罪として権利者から訴えられたり、あるいは不道徳として批判がなされるのだが、そうした係争や論争こそがある種目的化されているとすら言える。アナキズムのアイデアにおいてそうした体制による不当な抑圧は法的に正当化されていたとしても活動家は了承しない、ゆえに抵抗自体(メディアによる拡散、注目)に意義があるのでこうした犯罪は確信犯的に行われる。

つまりは企業や政府といった体制に対する「攻撃」手段をとってみても、60年代と80年代のアナキズムではその性質が大きく異なるのである。時代ごとにその時代の秩序があり、意図的に法やルールを破る側にも当然マナーやトレンドのような物が常に存在するという事である。

では日本の悪趣味/鬼畜系といった90年代のサブカルチャーがこうした流れの中でどのように位置づけられるのかという本題になるのだが、僕が思うにそれは80年代の虚無主義的イデアを踏襲した上で60~70年代のアナキスト的攻撃ノウハウを復活させたものではないかと思う。当時の(狭義の)サブカルが赤軍といったテロリストを興味や関心の対象としつつその思想にはさして感化されていなかったのは、それが失敗(敗北)したという歴史的前提、認識にある事は間違いない。

自分より上の世代、つまり親や教師が若い頃に入れ込んで大失敗した事を喜々としてやろうとする若者はまずいないが、世界革命や反帝国主義が陳腐化した中で唯一一定の成果を残したのが暴力の知見である。「この本を盗め」に書かれているテクニークは既にいささか時代遅れなものであったが、その発想自体は十分現代に通じるものであった。僕もあの本を読んでからは他所への引っ越しを見かける度「最近ここに越してきたばかりで家具やキッチン用品などまだ全然揃ってないのですが、よろしければ捨てる予定の物をくれませんか?」と声をかけるようにしている。

冗談はさておき、90年代のサブカルがドラッグの紹介や万引きのやり方をレクチャーしたのはホフマンが豚の帝国と一人一人が戦う為に覚えるべきサバイバル術として大麻の栽培法や前述したスーパーでの万引き法を解説した事に通じている。しかし90年代のサブカル的アナキズムと70年代の新左翼的アナキズムの大きな違いはエクスキューズの有無にこそある。

危ない28号別冊
個人的に危ないは1号より28号の方が好みです。
Hotlineというのは90年代のMac用ファイル共有ソフト、
ですから情報が古すぎて歴史的価値を除くとクソの役にも立ちません。


すなわち反帝国主義が陳腐化した時代においてはホフマン式の犯罪正当化(構造的暴力に抗う為に個人の暴力が自己防衛として正当化される)というレトリックは意味をなさなくなったのである。より正確を期して述べるのであれば、そうした自身の犯罪をおためごかしな態度によって正当化したり、あるいは労働者の暴動といった他者/弱者に対して同情的な視線を持っていた上の世代のインテリに若者達は単純に反感があったのだろう。

露悪趣味は構造的暴力という概念に対する思想的な解体と反転をしばしば行う。いじめが個人ではなく社会という構造によってなされる事、略奪が貧困という社会問題によって発生する事、その加害者も被害者もそうした社会という劇場の単なる演者に過ぎないという前時代的な思想を逆転させ、いじめも万引きもただありのままの暴力でしかないのだと露悪的に表現する。

しかしその冷淡で虚無主義的かつ過剰な攻撃性を帯びた筆致は当然に過去の文脈、つまりは19世紀のバクーニンから続いたアナキズムが、更にはその前史としてマルクスが下地にある。なぜならば歴史とは連続体でありワンピースで提供されるカットケーキではないからだ。90年代の悪趣味/鬼畜系カルチャーがうわべ上無思想を装うのは一種の反父権主義であり、旧来的なレトリックの使用を徹底的に忌避したがゆえにその露骨なスタイルとなったに過ぎない。言外には常にマルクス的なヒューマニズムの視線や共感を持って読み解いてほしいという七面倒臭い愚かで傲慢な若者の繊細さがそこにはある。

RandyのKarl Marx And History

またそうした言い訳の一切を(一見すると)行わずに対象や自己の悪徳を描くという姿勢そのものが、暴力を構造的暴力と直接的(個人的)暴力に分別し再定義する事で正当化した旧来の新左翼/アナキストを暗に批判しているとも言える。80年代にHusker Duがしたそれと異なる点は反暴力の視点からアナキズムを批判するのではなく、暴力という行為を肯定した上でその思想性のみを否定している事だろう。

彼らがあえて暴力を肯定する事はレイプカルチャーの概念を念頭に置く事で説明が可能である。レイプカルチャーとはレイプをするなと教えるよりレイプされないようにしろと被害者やその潜在的な対象へと教える文化、構造的暴力を意味する。いじめ被害を相談したら、鍛錬によって強くなり打開しろ!と教えるのは何も大山倍達のような狂人に限らない。直接的暴力に対する最も明快な対症療法は個人が同様に直接的暴力を獲得する事であり、往々にして世間はそういった言説を肯定してきたしそれはおそらく今日現在も同様である。

Rapemanの7インチ
アートワークは日本の漫画レイプマンの1コマから無断で拝借された

文系のヒョロヒョロしたボソボソ喋りの根暗っぽいおぼっちゃんが障碍児童をいじめていた事実を明らかにする事で生じる異化効果は、いじめという一般に圧倒的な暴力を有した…つまり体のデカい体育会系の先輩とか腕っぷしに自信のある不良みたいな連中が行うものだという先入観や偏見を我々から取り払い構造的に行われるのだという現実をカルチャージャミング的に示すのである。

ベルトルト・ブレヒト
20世紀の劇作家でマルクスの「人間疎外」に着想を得て異化効果という演出技法を発明する

いじめは良くないと表向きには言いつつ、同時にいじめという構造的暴力がありふれたものであるとも認識し、弱者に対してはいじめられない為の方法として暴力の獲得を推奨したり、あるいはいじめられるのにも理由があるのだといった二重三重のレイプを行う事で保たれる秩序が現実にあり、そうした裏側をショッキングで恐ろしいエクストリームな表現を通じて露呈させる…ここに悪趣味/鬼畜系ブームの斬新さがあったのである。

これは前時代のアナキスト達が用いた手法と実は同様の構造なのである。あらゆる時代でショックは常にフックであったのだ。しかし「この本を盗め」や日本の「腹腹時計」といった60~70年代当時の地下文書にあったような思想性を悪趣味/鬼畜系と呼ばれる文化は表向きに主張しなかった事が後に仇となった。彼らは自分たちがそれらを積極的に言葉にしないでも人々はその「文脈」を理解してくれるものだと甘えていたのである。言わなくても僕たちの事は分かってくれという若者特有の愚かで傲慢な考えである。

彼らの世代がアナキズム的思想を言葉にせずその腹の中で飲み込んだ事で、その後の世代もまた彼ら自身もその価値観を失ってしまったのである。人の記憶は脆く、外部記憶装置にアーカイブ化して残さなければ自身の体験すらやがて失われる。思想も、いじめの記憶も、怒りや反骨心さえもやがて失せて、五輪という国家主義で粉飾した薄汚い資本主義の欺瞞に満ちた祭典に平気な顔して参加ができるようにだってなるのである。時は残酷に人々に試練を課すのだ。そうした意味ではQJのコピペを異常な執念でもって貼り続けるような有志がいた事は一つの希望でもあったのだ。

僕は今日という時代に悪趣味ブームや延いてはアナキズムを語るにはやや感傷的なきらいがあると自覚しているし、わざわざここまで読んだ上でも、そのしばしば護教的な態度が透けて見える事に辟易としたかもしれない。あなたが何歳くらいか実のところ知らないのだが仮に10代や20代だったとして、おそらくは一切の同意や理解が出来なかった筈だし、一言一句に腹が立って仕方なかっただろう、しかしそれは当然の事なのだ。

最後に新左翼運動家のジャック・ワインバーグの言葉を引用して本稿を結ぼうと思う。またこの言葉はYIPの共同設立者ジェリー・ルービンが頻繁に引用した言葉でもある、ルービンとは記事冒頭の写真でホフマンの隣に映っている右の男だ。

"Don't trust anyone over 30" 

 -Jack Weinberg

ugh