2015年7月3日金曜日

マッドマックスが好きだから


マッドマックス 怒りのデスロードを観ました。それはジョージ・ミラーという人の強烈なエゴイズムがそのまま形になった究極の映画でした。ゆえに通しで観たのに、僕の頭の中は今もぐちゃぐちゃです。そもそもマッドマックスとは一体なんだったのか…自分の考えをまとめる為、ここに気の向くままメモしておきます。


僕は激突という邦題がとても好きです。無名時代のスティーブン・スピルバーグが撮ったあの激突です。激突は本国では元々Duel、つまりは決闘という意味のタイトルでした、Duelはごく普通のセダンを運転する主人公の男が、公道で18輪トラックを強引に追い越したら、その後18輪トラックが明確な殺意を持ってずっと追っかけてくるという内容の一風変わったスリラー映画です。タイトルの決闘は、もう逃げ切れないと判断した主人公がセダンをUターンさせ、18輪トラックに正面から一転決闘を挑む…という最終局面から名付けられています。

激突

激突という日本でのタイトルはオリジナルより更に先へ踏み込んだ命名と言えます。あの映画で主人公が最後に行った決闘とは、セダンをUターンさせ、18輪トラックに向かって直進する事でした…結果セダンと18輪トラックは真正面から激突するのです。あぁなんというド直球、捻りもクソもありませんが、車同士が激突する映画なのだからタイトルは激突で間違いはないのです。しかも激突というタイトルはどんなアホにも常に最悪の事態を想像させます、観客は個々の被害妄想傾向や知性レベルに関わらず、タイトルがタイトルであるだけに、セダンと18輪トラックがいつか激突するのだと、その瞬間が訪れるまで思考を不安に支配されるのです。きっと決闘とかデュエルとかいったタイトルであれば本作の観方は人によって大きく変わったかもしれません。ですが今日の日本ではスピルバーグのDuelは激突というその超短絡的かつ超暴力的なタイトルによって認知されているのです。

新幹線大爆破

ところで日本には、新幹線大爆破というタイトルの映画があります。これは走行中の新幹線に爆弾が仕掛けられていて、スピードを一定まで落とすとドカーンするぞ、命が惜しけりゃ身代金を寄越せと犯人グループが連絡してきた…やべぇテロ事件じゃん、どうしよう!?っていうお話ですね。このタイトルも激突と同様に僕は愛しく感じています。漢字6文字の単純なラインでここまで明快かつ暴力的なラベルは他にまずありません。しかし新幹線大爆破はその不穏な直球タイトルながら、劇中で新幹線が大爆破しません、仕掛けられた爆弾は見事に解除されるのです。しかし激突と同様に、このタイトルは観客に最悪の事態をいとも容易く想像させ、その瞬間が訪れるまで緊張で脳を縛り付けるのです…結局大爆破しないのにも関わらず。

マッドマックス

じゃあ、マッドマックスというタイトルはどうだったんだろうと振り返ると、1作目で若き日のメル・ギブソン演じる主人公のマックスは初出時から肝っ玉の据わったパトカー警官なのですが、同僚が暴走族に無惨に殺されるのを見たら、ひよって警察を辞めようとします。新幹線大爆破という映画はタイトルに反して新幹線が大爆破しませんでしたが、一方で激突という映画は、最後に文字通り18輪トラックとセダンが正面から激突しました。そしてこのマッドマックスは一旦ひよって警察を辞めようとしますが、その直後に暴走族に妻子が惨殺されると、一転、警察を無断で辞めて暴走族を皆殺しに繰り出します。そこには圧倒的な転調のカタルシスがありました。マックスって奴は全然マッドじゃないかも知れないと途中不安になりましたが、最後にはタイトル通りの内容になっていました、暴走族のバイクを後ろから猛追した挙句、対向して走行する18輪トラックに正面から激突させるクライマックスがマッドでない謂れはないでしょう。

マッドマックス2
18輪トラックに生身で立ち向かう主人公の図
続編のマッドマックス2は罪作りな映画でした。今日のマッドマックス像はマッドマックス2に殆どを支配されています。広大な不毛の地を舞台にレザーと粗悪な鋼鉄の装具を身にまとったパンクスが、ハンドメイド/バスタードカスタムな小銃で武装し、異形の改造ビークルを駆るという究極のヴィジュアルインパクトは四半世紀を経た今日でも、チェレンコフ光じみた不穏な輝きを失っていません。舞台設定の大幅な変更こそあれ、本作においてもマックスの狂気の原動力は変わらず深い悲しみにありました、物語の前半には、ややドライな気質を示していたのに、暴走族に愛犬を殺された瞬間にやぶれかぶれな戦いを決意します。

少年と犬
映画史に残る感動のラストカット

犬は人類にとって最も古い異種の友人です。ですから自分の犬が誰かに殺されたら、その誰かを殺す事は許されます。ケッチャムの小説Red(邦題 老人と犬)は、チンピラ少年に新品ライフルで理由なく撃たれ命を奪われた老犬レッドの弔いの為に(朝鮮戦争帰りの)老人が報われない復讐を遂げる物語でしたし、最近だとジョン・ウィックなんかは殺されたワンちゃんの弔いの為にキアヌ・リーブスが以降はずっとスタイリッシュに人を殺し続ける映画でした。ところで味気ないRedという原題を、老人と犬という、老人と海、少年と犬のダブルミーニングで付けた邦題を僕はまた愛しています。エリスンの少年と犬という小説は、エリスンのミソジニー的気質が一切の希釈もされずに放り込まれたブロマンスの傑作です。核戦争後の不毛の荒野を舞台に少年ヴィックと(テレパシーで喋れる)犬のブラッドは寄り添いながらあてもなく歩き続けているのですが、少年が少女(ヒロイン)と出会う事で転機が訪れ、紆余曲折の末、餓死寸前の犬なんか捨てて一緒に荒野を行きましょうと少女は少年に言い放ちます。少年はしばらく考えた後に、生きた少女を解体して犬に食べさせ、また荒野を1人と1匹で歩きはじめる…そんなお話でした。

話が逸れました。犬は人類の友人であり、殺されたら、そいつを殺すのが当然ですし、彼が餓死しそうならばカキタレを食わせてでも助ける選択肢を用意すべきなのです。家族が殺されたらマッドになるのが当然なように、犬を殺されたマックスは冷静でいられなくなり、結局18輪トラックを駆り、ボンネットに敵のパンクスがしがみついたまま、暴走族の改造ビークルと最後は正面から激突します。ワンちゃんの為なら男は18輪トラックで正面衝突(Headon)させなければならないのです。そこには圧倒的な転調のカタルシスと浮き彫りになった必然性という地平線まで続く、前世紀に施工されたアスファルトの舗装路がむき出しになって晒されていました。

マッドマックス2
感動のファイナルヘッドオン

ですから僕はマッドマックスとは狂気の彼岸を手前から必然により乗り越え、マックスが仇に激突を仕掛ける(仕向ける)映画なんだと思っていました。しかし究極的にエゴセントリックであるジョージ・ミラーという老人は物語におけるマッドの必然性を、新マッドマックスではこれっぽっちも取り上げませんでした。怒りのデスロードにおけるマックスは究極の巻き込まれ体質で、一切の心理的動機が描かれる事なく、映画の冒頭でフリークスの狂信者に捕まり、逆さ吊りにされて、異形の改造ビークルのボンネットにはりつけになって爆走した挙句、その後は映画が終わるまで鋼鉄の18輪トラックを駆って走り続けます。

マッドマックス 怒りのデスロード
感動の常時状態
マッドマックスとはフォーマットであり、水戸黄門が悪代官と悪徳商人を一回様子見した上で、最後にチャンバラで成敗するという高度な不文律と同様にあると考える人はこれに面食らいます。前世紀のマッドマックスは狂気の18輪トラック激突映画でしたが、そこに至るまでにイントロがあってAメロ、Bメロと続くことでサビに突入します。ですが怒りのデスロードとはさながらパワーバイオレンスです、70年代にThe Whoは前時代の(初期Beatles的な)サウンドと区別する意図で、自らの音楽をパワーポップと呼びました。80年代末期のイーストベイでは、そんな故事になぞらえ自らの新しい音楽をパワーバイオレンスと呼ぶ人達が現れました。

パワーバイオレンスという音楽の本質は極端なストップアンドゴー、秒単位で何度も変移するファストアンドスロウというでたらめなリズム転調が起こすカタルシスです。イーストベイパンクの第一人者としてシーンに登場し、90年代のパワーバイオレンスシーンでも絶大な影響力を誇った生きる伝説クリス・ドッジ率いるSpazzはギターベースドラムスの3人が1フレーズ毎に入り乱れるように交代で叫び続け、カンフー映画のサンプリングをポン出しし、15秒から1分半の支離滅裂な楽曲をLPに片面12曲ずつくらい突っ込んで世界に放出しました。元々ドッジが80年代に仲間と共にイーストベイで築いたStikkyなどのバンド、そのサウンドはファストコアと呼ばれる、べらぼうに速くてやかましい音楽でしたが、あくまでタメを前段階として作って炸裂させる音楽ではありました。しかしSpazzは究極に楽しいクソです、11秒でスロウのタメを作り、11秒あたりを駆けずり回り、1秒無音になる事を、寿命20分の人造人間 ホムンクルスの体細胞分裂がごとく繰り返します。それは平静な人間の脈拍のリズムとは大きくかけ離れた暴力の標準速度です。

 
SpazzのCrush Kill Destroyから
ヒスパニックスモールマンパワーのサンプリングで始まる最高の1曲

また話が逸れました。新マッドマックスは寿命2時間の体細胞分裂です、ファストコア系老人ジョージ・ミラーはフォーマットの一切を捨てて、極めて小さな単位時間を基準にファストアンドスロウを繰り返します。そして主人公の動機付けなどファストに割く事で、全てをコアにつぎ込みました、コアとはなにか、それは激突でした。激突という映画は1時間半の最後で18輪トラックとセダンが正面衝突する映画でした、つまり10分に1回セダンが18輪トラックと衝突する映画ではありませんでしたし、新幹線大爆破は2時間半で1回も新幹線は大爆破しませんでした。しかしビークル大激突を描き続けたジョージ・ミラーのマッドマックスとは10分に1度18輪トラックが激突する映画を意味します。

怒りのデスロードの脚本は異形の改造ビークルとタフな18輪トラックが激突する為に最適化された究極の設定ルール集です。それは激突老人ジョージ・ミラーその人により、キャラクターのバックグラウンドやストーリーらしい演出を徹底的にリジェクトし、車が激突する必然だけが書かれたバイブルです。ミラーは多くの要素をエゴセントリックに削りました。たとえば、今日ではレイシストDVクソ野郎として認知されているメル・ギブソンがレザーに肩パッド、銃身を切り詰めた水平二連散弾銃を片手に、犬を連れて荒野に立つあまりに有名で、あまりにカッコよすぎたマッドマックス2のスチルがあります。僕らファンは勝手にマックスは荒野で切り詰めショットガンを持って徒歩でインファイトを行うものだといくらかイメージをそれから刷り込まれています。しかしミラーの考えるマッドマックス像とは激突であるので、徒歩でショットガンをぶっ放す必然性が皆無なのです。

マッドマックス2
あまりにカッコよすぎた罪作りなスチル
イカレDV差別主義者からバトンを渡されたトム・ハーディ演じる新マックスは序盤で、トレードマークの銃身切り詰め水平二連散弾銃を拾って砂漠を立ち上がるカットがあります。少なくない人がダブルバレルインファイトの必然性を期待しますが、狂人ジョージ・ミラーには揺るがない哲学があり、加えてファンの定義をものともしないので、引き金を引いてもそれは弾が出ません、マッドマックス2で生身のヒューマンガスと18輪トラックに乗ったマックスが対峙したシーンのように、逆説的にそれは痛快です。更にマックスが弾薬農家の将軍と徒歩で戦いを挑むシーンにいたっては、行ってくると呟いた瞬間、カットされて血まみれのマックスが数秒で戻ってきます。ミラーは歩兵戦の一切を描く事を拒否します。そういうのが観たけりゃ、サム・ライミにArmy of Darknessの新作でも撮ってもらえクソども…と僕はミラーに中指をおっ立てられたような気がします、過度な被害妄想かもしれません。しかし間違いなくマッドマックスとは徒歩で銃をぶっ放す映画ではないのです。

キャプテンスーパーマーケット
ブームスティックと片腕チェーンソーは今も色あせていません。

基本的に怒りのデスロードでは、小銃は車に乗って激突している時にしか作用しません。火薬式武器の類はミラーの世界では極めて無力です。はじめは、なんでマックスの18輪トラックに女達が乗ってるのか不思議でしたが、それは18輪トラックに対する投擲系爆発物の類を禁止する為の理由付けが本質だったのだと今では思います。エリスンは犬に女を食わせましたが、犬も女も、水平二連ショットガンも、インターセプターも激突の二の次であるミラーはそれらを歪なルール設計の為に第一は用います。そしてマイケル・ベイなら派手にガソリンやニトログリセリンを積んだトレイラーを爆破させるかもしれませんが、ミラーは爆発よりも鉄の塊が激しく互いに衝突する変化と回帰の瞬間的映像を尊重します。その滅茶苦茶な目的(激突)の為に示されるガバガバな筋道は、観客に正常な判断をさせる前に高速で過ぎ去っていきます、11秒のファストに挟まれた11秒のスロウとは高速で飛来するスロウです。

物語の最後に究極の巻き込まれ主人公だったマックスは狂気の判断を下します。来た道をUターンして引き返そう…それは、うわ言のような合理性の欠片もない台詞、ガバガバの脚本でした。ミラーは何を思ってこんなものを書いたのでしょうか、いえ、分かっています。映画 激突で追い詰められた主人公がセダンをUターンさせ18輪トラックに向かったように、ここでUターンすれば車同士が激突するのは火を見るより明らかであり、11秒後の未来は感覚器官の先端に到達して容易に触れえます。このジジィただビークルをヘッドオンさせたいだけやないか!僕は噴出す気持ちを抑える事ができませんでした。

現実は非情です。

マッドマックスというタイトルはマックスがマッドになって何かをしでかす、多分に大抵は18輪トラックが激突する…という意味ではなく、マックスはマッドなので鋼鉄の18輪トラックが激突しますの意です。ジョージ・ミラーのブラックボックスは細やかなディテールも行き届いた恐怖の暗箱で、逆位相に映るぼんやりとした像に様々な意図が織り込まれていますが、その大局はモンスターホイールが激突に向かってだけ進む決闘場です、ゆえに僕はマッドマックスというタイトルが好きなのかもしれません。激突とは刹那です、人生は刹那の享楽の為の長い道で、究極的に個人はその為にエゴセントリックになるべきなのです。

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