4月19日を自転車の日という。
日本では「自転車の安全利用の促進及び自転車駐車場の整備に関する法律」という長ったらしい名前の法律が施行された5月5日を同じように自転車の日と呼ぶが、一方のそれはとある中年男性が帰宅途中で乗っていた自転車からすっころんだ日を記念して呼ばれているものである。件の中年男性は名をアルバート・ホフマンといい、彼は1943年の4月19日にリゼルギン酸ジエチルアミド、すなわちLSDを自ら摂取しておりラリパッパーでまともに運転できなかったのである。これが人類の歴史上で初めて自らの意志で人間が合成LSDを摂取した日、自転車の日のあらましである。
ところで朝日新聞は先日、7月24日に以下のような報道をした。
自転車でポケモンGO、女子大生ひったくり被害 名古屋
http://www.asahi.com/articles/ASJ7S5RCCJ7SOIPE020.html
自転車に乗りながらスマホをいじってた女子大生がひったくりにあったという事件である。しかし彼女がしていたのはキャリア通話でも、メールでも、Lineでも、メルカリでも、ツムツムでもなく、ポケモンGOなのである、だから7月24日は同月22日に日本で解禁されたポケモンGOにおける自転車の日となるだろう。
しかし狂騒である。街にはポケモンGOをプレイする為に人が立ちはじめたが、僕の住む地域でも駅前を中心に線路沿いの道へこれまで一体どこに隠れていたのだろうという数の人達が集まっていた。あの人通りのなかった路地が、さびれた公園が、突如として黄金を噴出して人を呼び寄せていた。
誰もがポケモンパーティとして集結したのではなく、ただそこに立っていた。現在の状況をランドマークにポケモントレーナーが集まっていると表する事は可能であるのだが、それはunitedではなく、多くはdividedなまま人が集まっている。divided we standである。組織されていない意志の波がストリートの潮流を形成している。
これを奇異な目で見る人は少なくないだろうが、一方で誰もいない場所とは、誰かに見限られた場所か、誰かを追い出した場所を意味する。個人とは究極的には思想傾向を超えて、より根源的な欲求、自己の利益の追求によってのみ行動するのであるから、僕は人のいない場所にこそ歪さを感じる。
数年前まで僕は小滝橋通りに住んでいて、医者にかかる場合は大久保病院へ通っていた。この病院に隣接する大久保公園という広くもないスペースは日本人街娼のメッカとして知られている。十数年前の大久保公園の風景は非常に独特で、殆ど組織化されていない(ショバ代は払ってるのだろうが)個人プレイヤーの娼婦達が一目にそれとは分かりづらい普段着の恰好でずらりと並んで、何するでもなく携帯電話なんかをいじって自らの時間を殺していた。
大久保公園の娼婦たちはこちらに安易に声をかけてこない。うっかり私服警官に当たった瞬間ポン引き行為でしょっぴかれてしまうからだそうだ。元々は声掛けがあったのかもしれないが、ゼロ年代に僕がこの場所の特異さを認識した時点では、さまざまな人がただそこに集まってじっとしているだけだった。大久保病院の搬入口近くに、キャリーカートを引いた背の低い老婆が腰かけているのをよく目にしていたが、それが彼女の個人的なビジネスだったのだと気付いたのは何年も経ってからだ。
いつしか売春公園の悪名が知れ渡り、結果として大久保公園はゼロ年代の半ばくらいに、行政によって物理的に立ち入り禁止の柵で封鎖された挙句、厳重なゲート付きのゲームコートに様変わりした。それにあわせて分離状態のまま、かの地に集合していた大半の女達はどこかに消えてしまった。無論、彼女達は大久保公園のようにクリーンにリニューアルしたわけではなく、ただ、どこかに追いやられたに過ぎない。
追放された人のたどり着く先が以前よりマシだったためしがあったろうか、楽園を追放されたエヴァのたどり着く先はこの世という地獄だ。ストリートに立つ事が出来なくなった後ろ盾のない若い個人プレイヤーのジャンプ先の一つはインターネットスペースだ。ネットは犯罪の温床で取り締まりが必要だとある人は言うが、そこは通りを追い出された人のマシじゃないマシな選択肢だ、真にケアするべきは場所に対してではない。
これは単に売春に関わる人々に限った話ではない。たくさんの人が様々な事情でストリートを去っていった。単なる外遊びに目を向けてみたって公園はどこもスケボー禁止で、ドローンは飛ばせないし、ちょっと音を出せば警官が召喚される。野良猫に好き勝手餌をやり、花火を打ち上げればきっと人生は楽しいが、それが出来ないのだから外はまるでつまらなくて退屈なのだ。結局、集合住宅のあてがわれたあなぐらの中で鬱屈としてネットへ向かい、ヒカキンの動画を見て、風呂場でメントスコーラするしか僕らは自由を謳歌できなかったのだ。
The ハナタラシが関西圏のあらゆるライブハウスから出入り禁止をくらったように直接的かつ、全くの同情に値しない自業自得でなかったとしても、あらゆる方法でストリートから追いたてられ、僕らがたどり着いたのがネットなのだ。しかし今日、ピカチュウを追って多くの人がストリートへ繰り出しているのだ。ゴーリキーは自らの燃える心臓を掲げて暗い森の中で行くべき道を我々に示している。追放ではなく個々が利益の追求によってストリートを目指し戻っていく。楽しみも悲痛な生業もまとめて奪われたアスファルトのむき出しへ、ネットゲームを動機にして回帰している。
裏を返せば、通りにゴミをまき散らし、一銭も落とさないダニのような輩だけを排除して、お行儀の良いお大尽だけを呼び寄せる事は集合がdividedである以上不可能なのだ。かといって全員一律にストリートから消えろと叫ぶような奴がいるとすれば、そいつが真のパブリックエネミーだろう。19世紀のテキサスの荒野には無数の牛がいたように、21世紀の都市部では投機目的で建造された住人のいない家屋にニョロモがスクワットしている、それが誰のものでもなく、だとすれば主は何を我々に禁じるのか。
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