2016年10月17日月曜日

身長より高いところから落ちたら足がグキッとなる

「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」
発売記念インタビュー 第1回「ドンキーコング篇」
https://topics.nintendo.co.jp/c/article/cb4c1aca-88fb-11e6-9b38-063b7ac45a6d.html

『ドンキーコング』は、マリオがはじめてジャンプした画期的なゲームでもありますしね。
そうですね。ただ、これをつくった頃はけっこうマジメだったんです。たとえば身長より高いところから落ちたら、足がグキッとなるでしょう?
はい(笑)。
そこで、身長の1.5倍くらいの高さから落ちると死ぬようになってるんです。でも、さすがにそれくらいで死ななくてもいいんじゃない、ということでつくったのが『マリオブラザーズ』で、いまや身長の5倍くらいの高さから落ちても平気な顔をしてますからね。
マリオがジャンプするたびに、足がグキッとなったらゲームになりませんからね(笑)。

ゲームジャンルとしてのプラットフォーマー(日本でいう所のジャンプアクション)を顧みると、ドンキーコングが登場した81年から85年くらいの短い期間で既に大転換が発生している。この時代の少なくない主人公達は身長より高いところから落ちたら足がグキッとなって死んでいた。


マイナーウィリー
トレインスポッティングのカナビス座薬を便器から探すシーンで、
ウィリーを思い浮かべた人は多かったのではないだろうか。
この時期の彼らのポピュラーな職業の一つに炭鉱夫がある。Miner 2049er(マイナーザトゥウェンティーフォーティーナイナーと読む)から始まり、後発の単なるマイナーとか、ご存じイギリスが生んだゲーム開発カルトヒーロー、マシュー・スミスのマニックマイナーなんかが続けざまに登場した。炭鉱夫達は今日の感覚で言えば全くタフではなかった。これは黎明期のプラットフォーマーにおいては当初、ジャンプという物を多くの開発者達は現実の物理法則というある種の指標に即す形でビデオゲームで描いていったからだろう。

黎明期のプラットフォーマーで最も特徴的なのはジャンプ中の空中制動が殆ど効かない点だ。ヒーロー達は地面を蹴って宙に浮いた時点で着地地点がほぼ確定する。その場で垂直に飛べば一定時間後に足を着くのは同一地点だろうし、前方に飛んだ後空中でブレーキをかけて軌道を調整するというような事はできない。よく考えればそれは至極当たり前な事で、現実の我々が生身のまま重力下で跳躍を試みたとして、その放物線を修正する手立てなどマイク・パウエルだって持ち合わせていないのだ。

ウィリーの古典的なジャンプ
やまなりに弧を描いた後垂直に落下する
ウィリーの古典的な垂直ジャンプ
飛んだ位置と着地する位置はイコールの関係だ。
ドンキーコングのマリオも同様のジャンプメカニクスを有している。

よって80年代初頭のビデオゲーム炭鉱夫達は大抵はまったく我々と同様に重力の枷に縛られており、宙に美しい弧を描き、また同じような理由から身長より高いところから落ちたら足がグキッとなっていたのである。また、この重力の枷という概念は全く言葉通りの意味をしており、無~低重力の宇宙空間を題材としたゲームにおいてはそのフィジクスが適用される。具体的には83年のMajor Havoc(の破壊工作面)やJetpacなんかは同時代の炭鉱夫や探検家とは異なる挙動のメカニクスを有していた。

Jetpac
ジェットパックを装備しているので自由に飛び回る事が可能だ。
Major Havoc
跳躍後も放物線運動をせず泳ぐように移動する

宮本茂の言う所の"けっこうマジメ"というのは、この80年代中頃までの現実志向的な物理設計思想を指している。Jet Set WillyもMontezuma's RevengeもSpelunkerも地球の重力下を想定している以上、そうする事は自然な帰結だったのだ。日本ではスペランカーがビデオゲーム最弱の超虚弱体質キャラクタとして認知されているが、実のところ当時(のホビーPC版)の感覚では特段弱くもないというか、ごく普通の標準的な設定であった。

Montezuma's Revenge
弧を描いた後にそのまま"流れていく"独特なジャンプ。
でも高いところから落ちたらもちろん即死。

90年代後半に突如現れた続編Montezuma's Returnが
滅茶苦茶すごいバニホゲームなのでいつか紹介したい。
しかし黎明期のプラットフォーマーにおけるこの特性はFragile(脆い、割れ物)と言い、その後の多様化した世代においては明確に区別がなされる。その後というのは、85年にスーパーマリオブラザーズが登場して、地球の重力下で身長の何倍もの高さを跳躍し、ジェットパックもなしに空中でジャンプ軌道を修正するというデタラメなゲームが登場して、ある種の現実志向が面白さという観点からは大して重要でない事がある程度証明されていったのだ。

Monty On The Run
特徴的な美しいジャンプアニメーション
Rob Hubbardが手掛けたC64版のVGMは"モンティ"パイソンの
スペイン宗教裁判で使用されたDevil's Galopがまんま元ネタだけど超人気。
スーパーマリオに限らずジャンプという行為は85年くらいから多様性が生じていた。合言葉は飛んでみなくちゃわからないだ。84年のMonty Moleは完全にJet Set Willyフォロワーというかクローンだったが、85年の続編Monty On The Runでは軽業師のように宙を回転し、空中制動こそないが落下のデメリットが少なく設計されている。

魔界村
高所から落下してもダメージは受けないが、
空中制動の制限が非常に厳しいゲーム。

タイトル毎に何ができて、何はできないか(させないか)
というトレードオフの鋭利さが藤原得郎イズムだ。
これらは何が優れている、劣っているという単純な話ではなく、なにかを実現するためのアプローチ手法であり、個々のポリシーだ。ある時代をチーズのように切り取ってみたとしても宮本茂は滞空時に操作の余地を与えるように物理を設計し、藤原得郎はリアリスティックな表現手法(ある種の説得力と言い換えてもいいだろう)として重力のあり方をデザインしている。

ただポスト世代にとってFragileな特性は代替的な手法だったという感は否めない。興味深い例としては黎明期に登場したChuckie Eggという1画面アイテム収集タイプのオールドスクールなプラットフォーマーがある。このゲームは元々マイナーウィリーのようなハウスハリーという農夫がプレイアブルキャラクターで、彼が散らばった卵を集めるゲームのはずだった。だのに続編になったら突然チャックという卵のバケモノみたいな奴に主人公が代わっていて、元々高所からの落下に強かった(Lode Runnerから多大な影響を受けたタイトルなので殆ど死ななかった)ハリーと違い、このチャックは卵なのでちょっとした高さからダイブするとすぐに割れて死んでしまうのだ。

Chuckie Egg1から2
おでぶのハリーは何故か卵のバケモノに交代させられた。
なんか口の端から血を垂らしているし…

かつてはそれが当然であったとしても、常識が転換した後の世界ではFragileである事に特別な理由付けが必要になっていたのである。また捨てる神あればなんとやらで、80年代後半以降はこのオルタナティヴ性がPrince of Persiaなどのポストプラットフォーマーに引き継がれていて、Another WorldやBlackthorneといった写実的で精密なモーションで描かれた一つ一つの所作、アクションに著しい制限を課す"けっこうマジメ"なプラットフォーマーは登場の時点で明らかに他と区別されるグループに属していた。

Prince of Persia
現実的な物理ルールが意図して適用されている。
精密なアニメーションはちょくちょく映画などから勝手にトレスして起こされた。

足がグキっとなるか、ならないかは何によって決定されるのか?それはどこかのcvarを0か1で切り替えられる話だったりするので、現実の我々が確実にグキっとなるのと違い、職業選択や結婚よりも自由な概念である。自由であるがゆえに、前時代の否定など世紀を跨いで波のように揺れ動き、ある時には亀山雅之の生んだマリオのような唯一無二の新しいパターンが出現する。全ては等しく正しく、グキっとなったりならなかったりなのだ。

物理なのだ。

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ugh