2018年4月27日金曜日

超暴力ゲームとしてのWolfenstein II : New Colossus 解説



Wolfenstein II : New Colossus

オーバーテクノロジーの超兵器と不死身のオカルト軍団を擁し悪逆非道を尽くすナチをアメリカ軍所属のスーパーソルジャーWilliam "BJ" Blazkowiczがたった一人、八面六臂の大活躍で打倒する人気超暴力FPSの最新作。シリーズは92年のWolfenstein 3Dから断続的にリブートされているものの、これまでは第二次世界大戦時代のナチに征服された欧州や北アフリカの戦場へ単身BJが乗り込んでいくというのが基本的な骨子であった。

ところが2014年に発売された前作Wolfenstein:New Orderは先の大戦を勝利したナチに支配される60年代の欧州を舞台に、レジスタンスを扇動するゲリラ戦スタイルへと転身。つづく本作ではアメリカ本土へ舞台を移し、移民受け入れを背景として根付いた多様な人種やその文化が究極の多数派となったアーリア人グループにより不当に弾圧される様と対する反抗をプレイヤーは体験する事になる。

ナチに支配されたアメリカという設定自体はひどく手垢のついた物であるし、本作のそれに高い城の男のようなきめ細かな筆致はない。とにかくデカくてヤバい武器で外骨格型パワードスーツを着込んだ鋼鉄のナチ軍団の内側を無理矢理ミンチにして突き進むゲームプレイと同様にその描写は圧倒的だがひどく大味である。しかしユダヤ人に限らず、アフロアメリカンなどあらゆる少数派を浄化、あるいは隷属させようとする悪の帝国へ自由の為に武装革命を起こそうとするその至極単純な構図は、シンプルであるがゆえに示唆的である。

今作のBJは軍人ではなく、戦争が終結した平時にもかかわらず社会に混沌をもたらす過激なテロリストである。現実として今日では世界中で国家主義が台頭し、抑圧された少数派による武力抵抗は止まない。それを顧みればゲームプレイを通したBJとプレイヤーの一体感はテロに対するシンパと同義である。

BJは本作で初めてユダヤ系の血筋である事が明示されるが、ユダヤ人にしても現実には絶対的な少数派ではなく、現にイスラエルはアメリカの援助を受けて少数派のパレスチナ人を虐殺し、結果それはテロによる反抗を引き起こしている。本作はナチという架空の絶対的巨悪を置く事によって今日の世界を取り巻く相対的な暴力の推移をはっきりと浮かび上がらせた。超暴力ゲームの面目躍如といえよう。




…以上はS-Fマガジン6月号のビデオゲームガイドという特集の為に書いた草稿です。本誌には別のタイトルを1本1ページ頂いて解説のようなものを書いてます。元々タイトル2本のオファーを頂いたのですが、僕の都合で返信が遅れてしまい、新WOLF2の紹介は他の方が担当されています。なお紹介タイトルの選定に僕は関わっていません。

いまだに電子版のない超ハードコアフィジカル志向を貫く孤高のZineに慄きつつ、SFつったらディックとか…程度の浅い引き出しをひっくり返しつつ本作の裏テーマというか、エクスペリエンスの読み解き方みたいなものを俯瞰してみました。やっぱりこれも結構気に入ってるのでここに供養しておきます。以下は補記。




ジャンル論みたいなものに抵抗はありますが、敢えて言うと新Wolfensteinはいわゆる枢軸勝利ifモノという括りになると思います、本文で挙げた高い城の男はこの分野における代表格的作品と言えるでしょう。またコミュニスト(ソ連)に支配されたら?という共産主義勝利ifモノですとFreedom Fightersという、これまたレジスタンスを主導して暴力革命を目指す似たような背景構造のビデオゲームが2003年に出ています。米国被支配ifモノという、よりマクロな括りで言えば、北朝鮮(これは中国の差し障りない代替品である)に支配された国土を暴力革命で取り戻そうとするHomefront(2011)なんかもテーマに共通性があると言えます。

Freedom Fighters
ソビエトに侵略された米国を武力によって取り戻す暴力ビデオゲーム。
冷戦が終わり共産主義の恐怖がなくなったがゆえの作品でもある。
抑圧的な社会、非人道的な支配構造に対し人々が蜂起するという、より抽象的な構図で捉えれば、横暴な企業に対し労働者が武器を持って戦うRed Faction(2001)など、共産主義武装革命のロマンチシズムで作った蒸留酒のようなビデオゲームも存在しますが、流石にここまで引いてしまうとディテールを捉えるのが難しくなってきます。

Red Faction
悪辣な複合企業の支配を打倒するべく火星の土方が全てを発破。
プロレタリア革命FPSの金字塔、俺たちが暴力装置だ。
一方でWolfenstein II : New Colossusの絶妙なバランス感覚は狂った民族主義、国家主義を抽出した暴力装置のエッセンスをシンプルにナチスカムバスタードと呼ぶ事にあります。現実にはドイツナチ党はもう存在しませんが、一方で多数派の支配者による狂った国家主義は無数に実在しているのです。そしてチェチェン人、ウイグル人、パレスチナ人など世界中で少数派民族は弾圧され、彼らの中には時に暴力によってそれに立ち向かう人が現れるのです。テロルとは必然であり、カウンターストライクとは玉ねぎの皮のようであるのです。

暴力は必然です。
元々Wolfenstein 3DにおけるナチはDoomのデーモンと大差がありません。VGA解像度の画面でプレイヤーが引き金を引くのに躊躇しないアイコニックなスプライト、根絶された歴史上の邪悪です。だから実際に21世紀の僕たちはビデオゲームでナチを殺戮する事にさしたる抵抗感がありません。しかし時に我々は予定調和の標的が30年代シカゴのギャング アルトゥロ・ウイのような依り代、アレゴリーである事を見通すべきです。

ドイツ生まれの劇作家ベルトルト・ブレヒトはナチ政権下で国を追われ、ユダヤ人の妻と子供を連れて戦時中に国外へ逃亡。この長い亡命生活の間に彼が書いた劇作品がアルトゥロ・ウイの興隆です。本作はアメリカ シカゴの暗黒街を舞台に俗物的なチンピラのウイが徐々に権力化し、ギャングを台頭させていく様が描かれています。

暗黒街のシカゴとは混沌とした当時のナチスドイツそのものであり、ウイはヒトラー、ギャングはナチの寓意です。40年代のブレヒトにとってナチは今そこで実際に自分達を追い立て、襲いかかる邪悪そのものでありました。ですから彼はまだそれを明け透けにそのまま悪魔のビルボードとして戯画化する事はできなかったのです。

1975年にアル・パチーノが演じたウイ
ウイのイメージは時代により様々な解釈がなされます。
ナチの脅威が過去になった時、しばしばそれは明示的にヒトラーそのものへと寄りました。
Wolfenstein II : New Colossusはとにかくナチを殺しまくる超暴力ゲームです。顔面は粉砕し、手足は千切れ飛びます。しかしなぜ今になってわざわざBJがユダヤ系である事が明かされたのか(今までずっとうやむやだったのです。僕も彼をジェームス・ボンドのようなパトリオットのサイコパスなんだと思っていました。)レジスタンスがアフロアメリカンなどマイノリティの団結をなぜ強調するのかが真に重要なのです。60年代にアメリカを支配した鋼鉄のナチ軍団とは今を生きる僕たちにとってどういった存在であるかを想像してみてください。

本作は暴力のバーチャルポルノです。仮想世界の肉体のフラグメンテーション、0と1によるジビングの賛歌です。マスターベーションを止めないでください。それですっきりするのならいくらかマシです。かつてのナチ党は墓の中です。しかしその母体は欧州はおろか、世界中で未だ健在なのです。だから間違ってもその子宮に種を注ごうとはしないでください。狂った国家社会主義の赤ん坊はすぐに産声をあげるでしょう。僕たちは現実に暴力の世界を今生きているのです。

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