2017年11月3日金曜日

日本の古代LANパーティと類するシーンや遠隔地対戦について

ヘッド2ヘッドゲームキット
90年代の実に奇妙なパッケージ。30フィートのシリアルケーブル(RS232C)と
シェアウェアCD(再配布、販売が可能なデモ版ソフトウェアの当時のナウい呼び方)
が押し込められた箱で5800円もする、今ならガチャ20回くらい引ける。


はじめに
以下は個人的なフィールドワークを元にミレニアム以前、90年代のコンピュータゲームにおけるマルチプレイヤーモードがどう遊ばれていたかについてのメモ書きです。ビデオゲームは媒体であり、体験やシーンこそが真に重要であるというここの基本方針を前提に、対象の単一な側面を捉えようという試みの一環であり、網羅的な内容ではありません。

http://www.4gamer.net/games/999/G999901/20171011112/
この記事のそもそもLANパーティーとは何なのかという項を補足するようなイメージで起こしたので、はじめに読んでおくといいかもしれません。ネット有史以前の情報は様々な層で致命的な歴史断絶が発生していまして、当時の証言者に当たっても既に個々の記憶が曖昧であったり、そもそも40~50代ですから、Jerry Rubinの言葉に従えば信じてはいけないジェネレーションなのですが、20年以上前にまぁこんなこともあったのねという感じで読んでください。もし内容の訂正や異なる情報の付記などをされたい場合は引用はもちろん、全文転載、加筆、改変してもらって結構ですのでよろしくお願いします。


ポピュラスの対戦モードに関する説明
お互いに違う機種のコンピューターで対戦する事ができます。

Null Modem
2台のコンピュータをシリアルケーブルで直接接続して相互通信する方法がヌルモデムです。これはもっと古くからある接続方法ですが今回は80年代の終わりくらいから話を始めます。この頃、個人向けのいわゆるホビーコンピュータが高速化し、世界的に16bitマシンではリアルタイムゲームにトレンドが移っていきました。日本では90年にイマジニアが販売したポピュラスがべらぼうにヒットし、その対戦コミュニティが地域ごとのローカルな形で形成されています。ポピュラスをプレイした人の中で、その対戦モードをプレイした人はかなり少数だと今日では考えられており、当時のプレイヤーですらポピュラスに対人対戦なんてあるの?ってな認識が殆どなのですが、87年からサービスが始まったパソコン通信サービスNifty Serveではその筋のポピュラスグループの会議室(スレッドの当時の呼び方)が確認されています。

興味深い事としては当時、世界中の各社から様々な独自規格のコンピュータが発売されており、ポピュラスは国産機だけでもPC98、FM-TOWNS、X68000の3機種に移植がされているのですが、本作はマルチプラットフォームで機種間の通信に互換性があったという事です。元々Bullfrogのオリジナルがそうだったのでインフィニティ(90年代にイマジニアやエレクトロニックアーツビクターに請われて洋ゲーを移植していた職人集団)はそれに沿っただけであると発言しているようなのですが、この互換性によって、それぞれのコンピュータを持ち寄った対戦会は比較的容易であったと考えられます。イマジニアが当時としては異例な各コンピュータ専門誌対抗の大会を開催している事もその証左と言えます。イマジニア(開発インフィニティ)はその後もしばらくの間、マルチプラットフォーム方針を続けていました。少なくともPC98版のDoom1/2はIBM PCと通信の互換性を持っていたタイトルです。

ポピュラス2の対戦モードに関する注意事項
続編では異機種同士での対戦はできません。
なぜかP2の国内版だけは色々とがっかり仕様だった。

Modem Link
ポピュラスはNull Modemに加えてModem Link、いわゆる直電接続での遠隔地対戦にも対応していました。その後にBullfrogが発売したパワーモンガーがより対戦志向な設計であったり、90年代のはじめは、これらRTSの前身的対戦ゲームのシーンがじわじわと過熱していました。またちょうどこの頃IBM PCの性能(と価格バランス)が他より頭一つ飛び抜けていきます。ほんの数年前まで青と紫の変な色の画面とビープ音しか出せず、ビデオゲームやエンターテイメントはてんでダメだったIBM PCが256色同時発色、PCM16音の業務用ゲームマシン並のプラットフォームになります。これにより各プラットフォームのビデオゲーム寄りだった好事家達がIBM PCに本格的に移行しはじめ、FIBMHB(Nifty ServeのIBM PC Hobbyフォーラム)は日に日に盛り上がっていきます。

そこには前述のポピュラスなどPre-RTSの流れを汲みWarcraftやCommand & Conquerに派生するグループや、Doomのグループがいました。この時期の彼らは大抵ローカルな地域に帰属しています、かつてのヌルモデム通信は直接会う必要がありましたので当然でしたが、モデムリンクの直電通信の場合は当時のNTTの料金体系が極悪だったからです。日本のNTTは元国営という地位に胡坐をかいて通信業を独占しながら料金設定は従量課金の一択しか用意していなかったので電話料金は青天井かつ、加えて市外通話は距離に応じて料金が跳ね上がりました。そこでシーンはおのずと通話料金を抑えるべく市内などローカルな地域で定着したのです。Doomの場合は今日のインターネット上でも一応は名前が確認ができる名ど振(名古屋Doom通信対戦振興会)、大阪や神戸を中心とした西ド強(関西Doom強化委員会)、東京とその周囲3県ほどをカバーしたカルト牛グループ(cDcにあやかった物と思われる)など地域ごとに出現した通信対戦派グループは非常に分かりやすい例と言えるでしょう。この地域密着型遠隔地対戦グループの流れは日本に限らず、米国AT&Tは市内通話こそ定額ですが市外はやはり従量課金式なので大抵は近い地域で結成されていました。この金銭的な制限を例外的に受けなかったのが青箱シーンです。

対戦ゲームをやらなければDOOMを本当にプレイしたとは言えない。
このJay Wilburという人は若き日のジョン・ロメロを最初期に見出した人で、
98年くらいにidを辞めた後も、EpicのPDとしてUnreal Tournamentなどを送り出します。
その言葉に違わず、一貫して対戦殺人ゲームの魅力を信じ続けたのです。

Ethernet
93年のDoomはNull Modem(シリアルケーブル)とModem Link(直電)に加えてEthernet(LAN IPX)に対応していました。直電通信を先に書いたのでややこしくなってしまったのですが、LanでDoomをプレイするのはPingが良いとか直接顔を合わせて遊べるとかも勿論メリットなのですが、最大の理由は4人で同時に遊べるという事です。電話は架ける方と受ける方の1対1の通信プロトコルですから直電による遠隔地対戦はいわゆるH2H(ヘッドトゥヘッド、1対1)でしか遊べないのです。なぜLan Partyというゲームコンベンションが始まったかという答えは至極単純かつ明快でDoomを4人で遊びたかったからです。

呼び方はともかく日本でもEthernet上で4人同時にゲームがやりたいグループによって90年代はじめくらいにかけてLanパーティはオーガナイズされています。これは先述した名ど振と西ド強の関西OFFLINE対戦会などがずばりそれに当たりますし、同様の動きはむしろその時代、頻繁に見られます。macintoshではMarathonシーンにmiha(橋本美千夫)という有名な人物がおり、実際にLAN対戦(当時はネットワーク対戦と呼んでいる)をオーガナイズしたり、その事を様々な媒体にレポートで残したり、セットアップなどやり方を指南しています。macの直電プロトコル(ARA)はどうしょうもないので実用に耐えない事を優しく丁寧な言葉で語る完全にLAN派の紳士的な人でもありました。

RTSシーンでは95年のCommand & Conquerは非常にDoomのLanでの遊ばれ方に影響を受けていて、Null Modemと直電でH2H、Lanでは4人でのプレイをサポートしていました。94年のWarcraftが2人用モードしかなかったのに比べて、2倍カオティックな戦場が与えた衝撃は計り知れません。また同年のMech Warrior2は当初1人用のゲームとしてリリースされましたが、これも対戦ゲーム人気に押される形でしばらくしてIPX対応版(netmech)が登場しました。重厚なメカを操る4対4の戦略的ゲームプレイはスピーディなDoomの対戦とはまた異なる楽しさを提示しています。ともあれ当時の人はネットワーク(LAN)が今後ビデオゲームを変えていく事をこの時確信していたのです。

Mech Warrior 2 Netmech
いわゆるBattletech、元々90年代はじめ頃コックピット型筐体を
ネットワーク接続したBattletech Centerというアミューズメント施設が登場し、
そのコンセプトをIBM PC-Ethernetで一般向けににインポートしたのがNetmech。
Battletech Centerは国内でも横浜と渋谷で95年頃まで短期間ながら運営され、
その余波か日本でも90年代はこの種のメックゲームにまだ強烈なカルト人気があった。

WWW Internet
先の確信はインターネットの到来によって瞬時に朽ち果てていきました。96年には日本にもトンネリングソフトKali95とTaisen(NEC)によるその国内サーバが上陸し、DoomやC&Cの4人対戦、その年にリリースされたWarcraft2やDukenukem 3Dに至ってはダイヤルアップモデム(IP接続)でも8人の同時プレイが可能になり、年末にはより先進的なTCP/IP、サーバークライアント方式のQuakeがローンチします。直電方式では市外の人間と遊ぼうとすると電話料金が高くなるので出来るだけ市内で集まろうとする傾向がありましたが、市内のアクセスポイントに接続しウェブへ繋ぐIP接続は金銭的な障害なく市外間でプレイ相手を募る事を可能にしました。

これは非常に革新的な事で、実際に今日も勇名を轟かすQuakeを端とするパブリックサーバグループ兼インターネットコミュニティTri-6と傘下のクランは北は新潟、南は福岡のプレイヤーがごちゃまぜになった全国区のグループでした。ただし当初のダイヤルアップIPサービスはプロバイダの質の良し悪しが非常に不安定で、ベッコウアメインターネットはPing 1000msを余裕で叩き出すのでゲームにならず、直電の方がマシだったという過渡期の証言もあり、良い事ばかりでも決してないのでした。

またISDNが日本で整備されたのもこの時期なのですが、先述の通りNTTは殿様商売の月額費用+接続料金従量制をやっていたので、会社などの法人以外で常時サーバをホストしている人はまだ多くはありません。当時は市内のアクセスポイントだったとしても3時間ネットを繋げば5~600円はかかり、それを毎日続けると月の請求が20000円を軽く超えます。ゆえに1日4時間以上ネットをする人はヘビーユーザー、度を超えた狂人、破綻者だと考えられていました。しかし元々FIBMHBにいた業人達は既に正気でなかったので、ISDNをデュアル(回線を2本契約して速度が倍になる、料金も単純に倍になる。)で引いてサーバをホストしたりしていました。不動産屋の道楽社長とか、韓国ディスコのオーナー(その後、2000年くらいに大久保スパイダーに先駆けて職安通りにネカフェをオープンさせている)みたいな人もいましたが、改良住宅の家賃より数十倍はNTTに払ってるはずだけど両親は把握していない、チキンレースをしているとうそぶく男もいました、僕の同居人です。そういった埒外の世界を除けば、98年頃までの日本のwwwはテレホーダイによって23時からと半ば規定されていました。

Quakeworld 4v4
97年くらいまではE3M2も良く遊ばれていたのだが、
見ての通り天井を陣取る滅茶苦茶ひどいキャンプゲーだった。
これでも4v4だからマシな方で、当時は平気でE1M2でDuelをしていた。
QuakeのDuelが一定の形になったのはZTNDM3とAerowalkが登場した98年以降で、
オリジナルQuakeはあくまで(当時としては)大人数のチームゲームとして作られていた。

CATV ネット定額時代
殿様商売を続けるNTTを脅かしたのはケーブルテレビ陣営でした。98年ごろにケーブルテレビ各社がケーブル線で定額インターネットを提供するサービスを開始し、ホビイスト達の間で急速なNTT離れが起こりました。ネットゲームをする上では固有のIPが割り当てられないなどの点からデメリットも大きいCATV回線ですが、ネット中毒の毒々モンスターは青天井の通信費用をそれだけで万単位抑えられるか、あるいは23時からの制限なくキャンディマシンを24時間稼働させる事が可能になりますから非常に魅力的な代替サービスでありました。そしてこれに押される形でNTTは99年の夏ごろ、来年中に家庭向け定額インターネットサービスを開始する事を発表します。97年のOCN定額ISDNサービス(月4万円~)が実質企業向けで、先のようなロコ中のロコちゃんしか入らないものだったのに対して遂に1万円台から定額通信が提供される一億総ネット廃人時代、ミレニアムは目の前に迫りつつありました。

家庭用に先駆けて法人向けプランが段階的に安価で提供されるようになり、インターネットカフェや時間貸しのネット接続済みPCを提供する店舗が99年から2000年くらいに都内に現れます。大久保エリアは職安通りを中心に雑居ビルのフロアを使って韓国式のPC部屋(PC房)がオープンしStarcraftを中心にしてRainbow Six Rogue Spearなどがピックアップゲームの形式でローカルに遊ばれていました。大久保のPC部屋は現在はかなり棲み分けが進んでいて、韓国系、華僑系、イスラム系、日系で店舗(Windowsや設備の言語)が別になっているのですが、当時は華僑系の受け皿がなかったので韓国系の店舗でも中国人利用客を見る事ができました。

日本人利用客が(比較的)多かった店舗としてはアルファステーションという元セガ系の老舗ゲーセンの上にあったスパイダーというPC部屋があります。アルファステーション自体が日本人向けゲーセンでありながら、地下に設置されていた天地を喰らう2やIGSの三国戦紀を中心に華僑系の根強いコミュニティが形成されていた国際色豊かなお店で、スパイダーも一応韓国系がメインだったと思うんですが3カ国語が飛び交う風通しの良いお店でした。BYOC、いわゆる持ち寄り型LANパーティの代替として今日も韓国式PC部屋は大きな役割を担っています。あまり日本人の利用客を見かける事はありませんでしたが訪れた人は必ず影響を受けていて、2001年の渋谷Neccaなどは大久保のPC部屋を明確にモデルとしたお店でした。
97年8月のPC Power誌
ヨンサンにPC房(PC ROOM)という新業種の店が出来たという記事。
Red Alert、KKnD、夜話(韓国産Beatem up くにおみたいなゲーム)が遊べたらしい。
RAはともかくKKnDがプレイされていたのが興味深い、RTS人気が韓国で既に高かった事が伺える。
料金は20分で800ウォン、通貨危機直前なのでまぁ1時間300円くらいだろうか。
競争が進んで現在の方が逆に利用料金相場は安くなっている。

ugh