2018年8月5日日曜日

百合アルワールド

The Truth About Love...
僕は髪を短くして男装をした女が、フェミニンなぽわぽわした女に欲情している様を見るのが好きだ。いや、正確には髪は長くてもいい、頭を振った時に毛先が肌にピシピシと当たる心地よさ、神経の通わない人間の先端が何かを打つ連続した無数のビートに抗う事なんてできないから。別に男装だってしてなくていいかもしれない、それはあくまで傾向に過ぎないというか、男の装いという物が何かそもそも定義できるのだろうか。RPGにはレースやクラス、レベル、性別、STRの値などで装備できないアイテムがルールやコードによって定義される場合があるがその種の問題なのだろうか。UnderrailというCRPGにはファールカップ(Groin Guard)という金的を守るベルトアイテムがあり、男性キャラクタのみ装備時に3%のクリティカルレジストを得られるのだが、なにをつけようが個人の勝手だし、現実世界において僕はGUでクリットレジストを参照して服を選ばない。強いて言えば金銭的な理由から不当なレベルの安値で売られたThe KinksのTシャツを買う。Dave Daviesが好きだし僕はKinkyだから。


The KinksのTシャツ安過ぎでは?
あさがおと加瀬さん。というアニメ作品、あるいはその原作に~加瀬さんと呼ばれる連作漫画シリーズがある。日本の一般的なハイスクールを舞台に、引っ込み思案で園芸好きのちょっとどんくさいフェミニンな女子高生 山田結衣と陸上部のエースでクラスの人気者、ボーイッシュな女子高生 加瀬友香の関係性を描いた一種の恋愛アニメ(漫画)である。狭義では女性同士の恋愛という観点から百合アニメ(漫画)とサブジャンル的に体系化されている。

~加瀬さんは基本的に、山田結衣の視点を軸に加瀬友香をはじめとした(極めて限定的な)他者との交流と彼女の心中独白(モノローグ)を通して物語が描かれる。スクールカーストという語が適切か疑問は残るが、同じ学校に通っていても交流のないグループというのは常に存在する。例によって山田と加瀬は長らく殆ど接点もなく過ごしており、物語は高校2年の夏になって、ふとしたきっかけで互いに面識を持つ所から始まる。しかし愛の連続体に遅延はない。すぐに山田は加瀬の眉目秀麗な顔立ち、人好きのする竹を割ったようなさっぱりとした性格と豪放磊落な振る舞いに惹かれる。誤解を恐れずに言えば山田は加瀬に男性的な、あるいはその代替的な因子に対してはじめ憧れを抱く。
何をしてるの 何を見てるの
校庭に設置された備え付けの蛇口から出る水をそのまま頭に浴びて涼を取り、屈託のない笑顔を向ける加瀬の男らしさに山田は心を動かされる。しかし待ってくれ、その男らしさとはなんだ。その少年のようなとは、中世的とは、ボーイッシュとは、女だてらとは一体なんだ。いしわたり淳治の言葉を引けば「わからないんだけど、それでも僕に少しの男らしさとか広い心が戻ればまだラッキーなのにね」であるが、その漠然としたロールのようなものを便宜上仕方なく用いるとすればそういう事になるのだろう。

無自覚な意識の変革によって、山田は事あるごとに加瀬を目で追うようになり、太陽が地表からふと目を離した頃には「どうか加瀬さんが…わたしのことを好きでありますように」と極めてパッシヴな願いを念ずるまでになる。まるで恋する少女のように。しかし待ってくれ、実際に彼女は恋する少女じゃないか、恋する少女のような恋する少女ではないか。加瀬が男らしさと呼ばれるような曖昧に定義が共有された何かを確かに有している一方で、山田は曖昧な女性観を曖昧であるがゆえに額面通り的確に捉える事が出来る。フルカワミキの言葉を引けば「あたしもう今じゃあなたに会えるのも夢の中だけ」といった感じだが、よくよく考えたらこれもいしわたり淳治の言葉であり、ナカコーの旋律であった。それじゃあ男らしさとは、女らしさとはなんなのだろうか。僕にはさっぱり分からないのだ。

二人の仲はどうでも、会いたいなんて言うのさ
アニメの加瀬さんはこの導入がなく開始時点で既に交際が始まっていて度肝を抜かれる。
それはともかく~加瀬さんという作品は本質的にポップタルトを揚げてチョコをかけたような代物なので、山田が加瀬を大好きなように、加瀬も山田が大好きである事がさっくりと明かされる。どうやら加瀬は山田のようなフェミニンでくりくりした女がこの上なく好みであるらしく、彼女に対してだけ生々しい肉体への渇望とそこに由来する庇護欲と性欲の入り混じった得も言われぬ粘着質な情念を抱えている。生来の気風の良さと、著しい特定個人への執着という反する性質を抱えた不均衡なキャラクタ像は加瀬さんの大きな魅力である。

僕は髪を短くして男装をした女が、フェミニンなぽわぽわした女に欲情している様を見るのが好きだし、逆もまた然りであるので、~加瀬さんは前世で切り離された魂の一部の様に愛おしい作品だと感じる。TCP/IPのくちづけが僕とあなたをだらしなく繋ぎとめる一方で、少女と少女の間には愛が隙間なく堆積し、誰もきっとそこに割り込めはしないのだ。
Oculus Goのパノラマ再生モードでみた加瀬さん
現時点のVRは出来る事が限定されていると言わざるを得ないが
地を這うアリになって女が女にキスしている様を眺められるのは革命的である。

ところで英語圏では男勝りな、お転婆な女の子の事をしばしばTomboyと言う。たとえばプリパラにはボーイッシュキャットと名付けられた揃いのコーデがあり、英語圏のプリパラファンコミュニティは独自の翻訳としてそれをTomboy Catと呼ぶ。また同系統の対となる衣装バリアントにガーリッシュキャットコーデがあり、これはそのままGirlish Catと呼んでいる。ボーイッシュキャットコーデはアニメ版プリパラで大神田グロリアが10歳の頃に仲違いした真中ひめかと20年越しの和解をするという、プリパラ第一シーズンで最も美しく感動的なエピソード(S1E25)において象徴的に描かれる。メアリー・タイラー・ムーアショウばりのバリバリ独身キャリアウーマンで抑圧的な教師である大神田と二児の母で何事にも寛容な真中(らぁらママ)という今日では異なる道を歩んだ2人が、少女時代の強い絆をプリパラによって取り戻す愛の叙事詩であり、ペルソナにより性差や年齢による姿形、あらゆる境遇を越えて愛は遍在するというプリパラS1最重要テーマの集大成的なメッセージでもある。

プリパラS1E25 大神田と真中
二人の間に滞留するのは時空を超えた愛です。
パブリックイメージとしてのTomboyは髪を短くして、男言葉で喋り、ジーンズを履きメタルのバンドTシャツを着ているような女の子の事を指す。これも一つの公約数的なものに過ぎないのだが、メジャーな類型の一つだと思ってほしい。またよくあるTomboyの誤ったイメージ、偏見としてTomboyは同性愛者あるいは、同性愛者になっていく過程だと見做す傾向がある。これはバイセクシュアルがホモセクシュアルへの変化の過程だとしばしば見做される構造とも似ているように思う。実際のジェンダーとセクシュアリティはより複雑かつ曖昧で、0か1のバイナリ思考で規定できるものではない。アニメポケモンのピカチュウが長い年月をかけてピカチュウである事の自由、ピカチュウであることの尊厳を獲得した事を思いかえしてほしい。ピカチュウはピカチュウとして存在し、ライチュウへの進化の過程ではない。

ピカチュウはピカチュウとしての尊厳、職業選択の自由を今日では得た。
日本産百合作品のファンは世界中にいるが、その点においてタイのファンコミュニティは独特かつ進歩的であるように思う。タイにはTomboyを語源とするトム(ทอม)と対する二元的な概念としてディー(ดี้))というアイデンティティ呼称が存在する。トムはセクシュアリティを規定しない言葉であり、因襲的にMasculinityだ(男らしい)とされる恰好や振る舞いをする女性という意味でしかない。もう一方のディーは因襲的にFemininityだ(女らしい)とされる恰好や振る舞いをしつつ、おおむねトムに魅力を感じる女性を指す。似たような概念として欧米のレズビアニズム論にもブッチ(Butch)とフェム(Femme)という恰好や振る舞いの傾向性を示す言葉があるが、トム/ディーはより複雑で細分化されつつも曖昧な"余地"を残した言葉である。
エイリアン2のバスケスは典型的で紋切り型なブッチ像の一つです。
アクション映画において脅威と戦うヒロインが2人以上登場する場合、
よりブッチ的傾向の強い方が途中で死に、比較的フェミニンな方は生き残る。
これをバスケス(は死にリプリーは生き残る)の法則と言う。
ディーはトムとの強い結びつきを前提とした言葉でありながら、レズビアンとは異なる概念だ。彼女達は生物学的な性を時に度外視しつつも、しばしば他者の男らしさと呼ばれるようなものに魅力を感じる傾向がある。傾向があるというのはトムとディーという組み合わせがメジャーな類型であるものの、マイナーながらディーとディーが結びつく場合もあるし、ディーの多くは異性愛者(つまりバイセクシュアル)でもある。これはトムも同様で、ともに決して二元論的な考え方で定義できない。

ゆえにトム/ディーは一見してややこしく、はっきりとしない考え方だが、これを適用すると~加瀬さんという作品を端的に言葉で表する事が出来るようになる。「女子高生のトムとディーがめっちゃ仲良しなアニメ」とかだ。フェミニンな10代の少女がボーイッシュな10代の少女に対して、「なんで同性なのにこんなに私はあの人が好きなのだろうか?」と思う事、あるいは逆にボーイッシュな10代の少女がフェミニンな10代の少女にそう思う事がなんてことない、類型的で至極ありふれた、掃いて捨てるほどこの世界に存在し、同時にそれが当事者たちにとってかけがえのない真実の愛である事を示す。

彼女は百合ですか、レズですか、トムですか、ディーですか?
Female Masculinity、Female Femininity、常にそれらは相対的です。
80sアメリカンポストハードコアの雄Husker DuのディスコグラフィにMakes No Sense At Allというシングルがある。ハードコアパンクのインディヴィデュアリズムを踏まえて、それでも自分はどれもまったくわからない、なんも自分には関係ないと吐露する事がBob Mouldという人のシニシズムなのだが、この作品のB面にはLove Is All Aroundというカバー曲が収録されている。元はSonny Curtisというカントリー歌手のヒットソングであり、それは70年代の著名なシットコム、メアリー・タイラー・ムーアショウのエンディングテーマとしてアメリカでは広く知られている。


90年代にはモールドがゲイであることは公然の秘密となったが、Husker Du解散後も彼はこの2曲をセットで今日まで歌い続けてきた。前者はどれも自分にはまったく分からない事なんだという歌で、後者は愛はどこにでも存在し、偽る必要なんてないんだという歌である。モールドにとって、加瀬さんにとって、ピカチュウにとって、僕にとって、あなたにとってまったく理解できない事は出来ないままそこに留まり続けるだろう、けれども、それぞれの周囲に愛は自然な形で定着している。理解と共感は別個にあり、時に人は自分と違う部分に惹かれ、何らかの同一性によって繋がる。そこで他者の目を通して何かを見ようとする必要があるのだろうか。愛に規範がないにも関わらず。

アニメ あさがおと加瀬さん。はGyaoストアにて単話200円で視聴ができる。
https://streaming.yahoo.co.jp/p/y/00025/v12741/

鳴村グレース/翌週

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